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   二章 この町で一番高いトコ



「では、よろしくお願いします」
 そう言われて、オレはそのじいさん――時計守のノルト・ハウゼンさんからこの町イザールの中心にある町のシンボル的存在の時計塔の鍵を預かった。
 事の始まりは一昨日の朝。明後日(つまり今日)『老人会』で一泊二日の温泉旅行に行くとかで、その留守の間、オレに時計塔の管理を任せるということだった。報酬は五〇〇〇クエル。まあ自給五〇〇クエルだとしても、割の悪い仕事というわけでもない。
 そしてオレは今、どうしたものかと困っている。
「…………」
 あきれて出す言葉もないというか、何というか……。
「どうしてこんなので、生活できるのかねえ……?」
 時計塔の中にある管理人の詰め所は、見事なまでに散らかっていた。まるで強盗でも入って荒らされたように。
 いつ客が来てもいいように部屋をきれいに片付けているオレからすると、こんな部屋はありえない。たまに年末の大掃除にかり出されたりすることもあるが、さすがにここまで凄い部屋は見たことがない。
 まあこんな部屋でも、わかる人にはどこに何があるかが本当にわかるらしいが……。
「これじゃあオレが、落ち着けないんだよな」
 頭を掻きながら、ぼやく。
 壁に掛けられているハト時計が、五時を示して鳴いた。
 オレはため息をひとつつくと、持っていた狼牙(リンガ)を壁に立てかけた。リンガっていうのは、じいちゃんから貰ったオレの愛刀だ。ちなみにその刃は鉄ではなく、オレに憑いている精霊――シロガネの牙だ。
 どうしてオレがリンガをこんなところに持ってきているかというと……実はオレにも、よくわからないんだよなあ。ルーヴィスが何かあるといけないからって言って、無理矢理オレに持たせたんだ。たかが時計塔で一晩過ごすだけの仕事なのに、どうしてリンガがいるんだか。まあそれでもオレもルーヴィスには勝てずに持ってきたんだけど。
「とりあえず、まずは片付けるかな」
 ハウゼンさんには悪いけど、と胸中で付け足す。まあ、後でちゃんとどこに何があるかを言っておけば、それほど問題はないだろう。どうせまた後ですぐにこんな状態に戻ってしまうんだろうけど。
 オレは爺臭く腰なんかを叩きながら、少し早めの大掃除を開始した。




「はー、終わった終わった」
 オレは額の汗をぬぐいながら、爽快感に満ちた顔で言った。
 部屋は、見違えるほど綺麗になっていた。床には塵ひとつないし、天井に染み付いていたタバコのヤニだって、もうない。
 これなら追加料金を取ったって、文句なんて言われないだろう。……まあ前払いだったしオレはルーヴィスとは違うから、いまさらそんなことはしないけど。
 ボーン……ボーン……。
「あれ? もうこんな時間か」
 壁に立てかけられた巨大な柱時計が時刻を示す音を鳴らして、オレはそれに気づいて時計を見た。時計の針はちょうど、午後九時を示している。
 掃除に夢中になっていて時計なんて見ていなかったし、唯一ある小さな窓から見える空も――冬だから日が暮れるのが早いのはしょうがないが――オレがここに来たときからあまりその色を変化させていなかったから、まあ気がつかなかったのも無理はない。
 オレは肩の凝りをほぐすように、ぐるぐると右肩を回した。そしてひとつ伸びをして、あくびまじりに言う。
「んー、そろそろ寝るかな」
〈ダルム、あれは何だ?〉
「……はい?」
 突然声がして、オレはそれに向かって半眼で言った。その声の主は、もちろんシロガネだ。
「あれって何よ?」
 もちろん霊体で姿がなくオレの左腕に憑いているシロガネにただ言葉だけで「あれ」などと言われても、わかるはずがない。
 オレの問いに対して、シロガネはいつもの不機嫌そうな声で答えてきた。
〈貴様の右側の壁にあるコルクボードの、その上に赤いピンで留められている五センチ四方の紙切れだ〉
 細かいところまでどうもありがとうと胸中で皮肉まじりの礼なんぞを言いながら、オレは視線をそのコルクボードに移す。すると確かにそこには紙切れが留められていた。それも、オレに見てくださいと言わんばかりにその紙切れの周囲には何も留められていない。
 ……ハウゼンさんの伝言だろうか? 何か言い忘れたことがあって?
 オレは頭に疑問符を浮かべながら、コルクボードに近づく。
「…………」
 オレは一瞬、その足を止めた。我が目を疑う。
「…………」
 オレは無言のまま、コルクボードに詰め寄った。そしてその紙切れを力任せに剥ぎ取って、オレの目がおかしくないことを確かめる。
 ……オレの目は、おかしくはなかった。でも、
〈何が書かれているのだ?〉
 シロガネが聞いてくる。それくらいわかっているだろうに。
「……オレ、掃除のしすぎで、ついにイッちゃったのかな?」
 思わずそんなことを、ぽつりとつぶやく。
 オレはしばらくその紙切れに書かれていることを見つめ、それが脳内処理が不可能なことだと再び知ると、それをまたコルクボードに留めた。それも今度は真ん中ではなく、コルクボードの隅のほうの紙切れで密集しているところに。
「さーて、寝るかあ」
〈…………〉
 オレはくるりと向きを変えると、部屋の隅のベッドのあるほうへと歩いていく。シロガネは無視されたことが気に食わなかったのか、何も言ってはこなかった。
 オレは電気を消して、ベッドに潜り込む。
 ……忘れよう、あの紙切れに書かれていたことは。あれはきっと間違いだから。オレは疲れていて、幻惑でも見たんだ、きっと。きっと。だって、そうじゃなかったら――
 オレは意識が闇に溶けていく中で、一瞬だけ、あの紙切れに書かれていたことを思い出した。
『冬の月第五週三日。その日、この時計塔の鐘を頂きにあがります』
 ……それは、今日だった。




〈ダルム〉
「んー……」
〈ダルム〉
「うるせえぞ、シロガネ……」
〈貴様……さっさと起きんか!〉
「おわっ!?」
 頭の中で響くシロガネの声が急に大きくなって、オレは思わず飛び起きた。
 寝ぼけ眼のまま頭を掻きながら、オレは不機嫌さ丸出しでシロガネに言った。
「……なんだよ」
 暗くて時計は見えないが、体の調子からして、多分今は十二時前後。……そんなときに人をたたき起こして、いったい何だっていうんだ、こいつは。
 オレが胸中でぶつぶつを文句を言っていると、シロガネはなぜか、声を落として言ってきた。
〈おかしいのだ〉
「は? 何が?」
 シロガネの言っている意味がわからずに、オレは聞き返す。
〈おかしいのだ。……十二時の鐘が、鳴らない〉
「あ、そうなの。ふーん。……じゃ、オレ寝るわ」
 そう言って、オレは再びベッドに潜り込もうとする。刹那。
〈貴様……まさかあれを、見て見なかったフリをするつもりか?〉
 シロガネの声が静かに、だが確かにオレの中の何かに響く。
 オレはそれに、動きを止めた。
〈確かにあ奴はこんなことがあるなどとは一言も言わなかったが、『私の代わりに時計塔を護ってほしい』とは確かに言ったぞ。そして貴様は、それを承諾した〉
 珍しくよくしゃべるシロガネの言葉に、オレはじっと耳を傾ける。……いや、正確には、耳を傾けることしかできなかった。
〈ここで鐘を盗んだ何者かを見逃してしまえば、貴様の評判もガタ落ちだな〉
 最後の言葉は皮肉たっぷりで、おまけに嫌な感じで笑いながら、シロガネが言う。
「ふっ」
 オレは小さく笑って、ベッドから跳ね起きた。脇に置いてあったいつもの茶色い革のジャケットに袖を通して、そのすぐ隣に立て掛けてあったリンガを手に取る。
「やってやろうじゃねえの!」
 オレは言って、管理人詰め所を出る。そこには細い廊下があって、その奥――ちょうど行き止まりになっているところには、上から梯子が降りてきていた。言うまでもなく、上へと上るためのものだ。
 オレはリンガを口にくわえると、その梯子に手を掛けた。




「あらまあ」
 とりあえずオレの第一声は、それだった。
 何て言うか、もう……それ以外に言う言葉もない。
 本来鐘があるはずのその場所は、今はぽっかりと穴が開いてしまっていて、何だか空虚で物足りない。
 この時計塔は、町の中心であるいザール駅の数十メートル北(と言っても広場があるだけなんだけど)にある。もちろんと言うか何と言うか、巨大な時計はその駅のほうを向いていて、その上にある巨大な鐘は四方に開けられた窓からこの町全体を見渡している。
 オレが今いるのは、その巨大な時計の反対側の壁だった。
 時計や鐘の掃除のためかそこには人一人が通れるほどのあまり大きいとは言えないドアが付いていて、そこを出ると幅五十センチほどの突き出した床が出迎えてくれる。もちろん、手すりなんてものはない。
 高さ約百メートルの断崖絶壁に、オレは立っていた。なのに、
「……いい眺めだなあ」
 思わず、そんなことをつぶやく。
 ここから見るこの町の風景は、見事なものだった。きっとこれが朝なんかだったら、もっとすごいに違いない。それに塔のてっぺんなんかに登れば町全体が見渡せるから、きっと、もっといい眺めが……。
 初日の出を見るなら、ここが一番いいかもしれない……。
 その場に似合わずにそんなことを考えていると、急にどこからか声がした。
「今夜は綺麗な、満月どすなあ……」
 やけにのんびりした感じの、オレと同じか少し年下の男か女かいまいちわかりにくい感じの声だ。
 それは、すぐ上から聞こえてきた。
 オレは鐘のあったところの窓の縁に手を掛けて、上を見る。……下は見ない。怖いから。
「あ」
 そこには一人の少年(だと思う。多分)がいた。そいつもオレに気づいたようで、こちらを見る。
 妙な奴だった。どこかで――かなり昔に何らかの形で見たことのあるような服
(でもそれともまた形が違うような気がする)を着ていて、足には生地の分厚そうな靴下みたいなものと木で作られた変わった靴を履いている。長いくせの強そうな黒髪は後ろで白い紐に縛られて、無理矢理ひとつにまとめられていた。おまけに顔を隠すためなのか、黒い目隠しのようなものをしている。
 そして背中には、模様の入った巨大な緑色の布に包まれた金色の物体があった。
 鐘だ。間違いなく、この時計塔の。
「あらま。時計守はん? ……いや、違いますなあ。ここの時計守はんはおじいちゃんやし……ああ、雇われた護り屋はんどすか?」
 まったく聞いたことのない言葉で、その少年はすらすらと言った。……こいつ目隠しなんかしてるのに、どうしてそんなことがわかるんだ?
 オレのそんな疑問をよそに少年はよいしょと鐘を背負いなおすと、時計塔の屋根から立ち上がった。そしてオレをじっと見ると(本当にオレを見てるのかはわからないけど)急ににぱっと笑って、
「ほな、さいならー」
「え!?」
 言うが早いか、少年はそこから下に飛び降りた。オレはただ、目を丸くしてその少年の行く末を見届けるしかない。
 この高さじゃ、いくらなんでも下に落ちたらミンチだぞ……。
 我ながら嫌な想像をしながら、オレは少年を目で追う。
「!?」
 物凄い速さで落下していた少年の動きが、急に変わった。だんだんと速度を落としながら空中を横に移動して、時計塔の正面(と言っても裏手だけど)にある建物の屋根の上に飛び移る。
〈ワイヤーか〉
 シロガネが言う。暗くて気がつかなかったが、確かに時計塔のてっぺんから細いワイヤーが伸びていた。
「やってくれるじゃねえの」
 オレはそのワイヤーが目の前で切られて力なく垂れるのを横目に、冷や汗を垂らしながら言う。
 ……オレにあそこまで、飛べって言うのか?
 さすがに危機感を感じてきたオレに、シロガネがさらに追い討ちをかけた。
〈今日は、同調はできんぞ〉
「わかってるよ、そんなこと」
 オレは舌打ちまじりに言う。
 今日同調できないのには、ちゃんと理由がある。確かに今日の仕事が『黒狼』としてじゃないっていうのもないわけじゃあないんだけど、本当の理由はそれじゃない。
 今日が、満月だからだ。
 満月の夜にはシロガネの力は膨張して、いつもの何倍にも膨れ上がる。それ自体は別に悪いことでも何でもないんだけど、いざ同調となるとそれがいつも以上にオレの体に負担を掛けるため、危険でできないんだ。下手をすると、オレが死ぬとか。何故そんなのが満月の夜なのかなんていうのは、実はオレにも当の本人のシロガネにもさっぱりわからない。まあなんだか、そういうものらしい。
 とにかくそんなわけで、今日は同調はできない。
 だからつまり、オレ一人の力でどうにかしろっていうことだ。
〈ダルム。早くしなければ、あ奴が行ってしまうぞ〉
「わかってるよ、そんなこと!」
 イライラが頂点に達して、オレは思わず叫んだ。ここは町の中心。夜はそれほど人口が高くないから、今ので起きたって奴もいないとは思うけど……。
〈あ奴の元へ行くには、まずここを飛ばなければな〉
 あああもうっ! わかってるけどっ!
「これホント、落ちたら死ぬぞ」
〈大丈夫だ〉
「え?」
 いつもならこういうときは必ず「そうだな、死ぬな。そうしてくれると我としてもありがたい」みたいなことを言うのに、何なんだ? この心境の変化は。
「お前、今何て……?」
 あまりにもさっきの言葉が信じられず、オレは聞き返す。シロガネは、いつもと変わらない調子で言ってきた。
〈貴様ならできると言っている〉
 オレはその言葉に、口の端をつり上がらせた。
「信じていいな!?」
〈無論〉
 だんっ。
 シロガネの言葉を聞き終わると同時、オレはその狭い床を思いっ切り蹴っていた。
 体が、宙を舞う。
 ビルの上で、あいつがこっちを向いたのが見えた。刹那。
 ごっ。
「…………」
 オレは無言で――歯を食いしばって、手に力を入れた。……そうしなければ、落ちてしまう。
「く……あ……っ!」
 渾身の力を腕に込め、オレはそこから跳び上がった。空中で一回転して、ビルの屋根の上に着地する。
「てめえ……」
〈ちゃんと跳べたではないか。さすがだダルム〉
 それは本当に本心なのかっ!?
 オレはそう叫ぼうとして、そして止めた。って言うかできなかった。息が上がりすぎている。
「大丈夫どすかー?」
 少年が少し離れたところから、オレに話しかけてくる。
「だ……大丈夫だ」
「でもすごい勢いで壁に激突しましたえ?」
「き、気にするな」
「でも滅茶苦茶息上がっとるし」
「いやもう全然平気だから」
「……鼻血出とりますえ?」
「わかったからそれ以上言うなっ!!」
 ようやく治まりかけていた息が再び上がって、オレはまた肩で息をする。
 それに見かねたのか、また少年が声を掛けてきた。
「……大丈夫どすか?」
「大丈夫だ!」
 とりあえず、大丈夫そうに叫んでみる。
 少年は少しの間困ったような仕草をしていたが、すぐに割り切ったようにくるっと方向転換して、オレに言った。
「そうどすか。ではっ!」
「え!? ちょっと待てっ!」
「……なんどす? まだ何か?」
 オレが呼び止めると少年は案外素直に足を止め、こっちを振り返った。
 オレはリンガを杖代わりにしてどうにかちゃんとその場に立つと、びしっと少年の背中の鐘を指さして言った。
「その鐘置いてけ、その鐘!」
「えー」
「えーじゃねえって。その鐘――って言うか時計塔護るのがオレの仕事だし」
「でもこの鐘盗るのがわての仕事どすえ?」
「……でも置いてけ!」
「えー」
 何度言っても、少年は同じ調子で口を尖らせた。このタイプの人間に何を言っても通じないのは、オレが一番よくわかっている。
 オレはようやく息も治まってきて、杖代わりにしていたリンガを鞘から抜いて少年に向けた。
「……置いてかないなら、斬るぞ」
「…………」
 さすがに今のは効いたのか、少年がしゃべるのを止めた。
 しかし数秒して、ため息とともに再びその口を開ける。
「わて、暴力ってあんまり好かんのや」
「それはオレもだな」
「……そやったらそっちが手え引いてくれへん?」
「それはこっちのセリフだな」
 オレが言うと、少年は再びため息を漏らした。
「交渉決裂……しょうがないどすなあ」
 ……ヤる気だ。
 オレはリンガを鞘に納めて腰の位置に持っていき、構える。
 いつでも始められる。そういう状態で、
 刹那。
「わては右京。太秦右京や」
「……は?」
 集中していたのを急に崩されて、オレはかくんと体をよろけさせる。
 いきなり、何なんだ?
「はて……こっちの国には戦う前に名乗るいう風習はないんどすか?」
「ない、けど……」
 少年――右京は驚き呆れたような口調で言う。オレはそれに、完全にペースを持っていかれたまま答えた。
「……なんや、ペース崩されますなあ」
「いや、崩されてるのこっちなんだけど」
「まあええ。とりあえず名乗らせてもらいますわ」
 名乗るのっ!?
 オレは胸中で突っ込むが、右京が聞いているはずもない。
 右京は完璧に自分のペースで話し始めた。
「先も言ったとおり、わての名前は太秦右京。そやけどこっちの人はこの名前が発音しにくいらしゅうて、わてのことヴァニッシュって呼んではりますわ」
「ヴァニッシュ……?」
 オレは思わず、眉をしかめる。確か最近、どこかで聞いたような……。
『……お前、ヴァニッシュって知ってるか?』
 瞬間、脳裏にその言葉が蘇り、同時にどうしようもない怒りが生じる。
 ……わかった。この仕事の黒幕。
 とりあえず今はそのことは置いといて、オレは手をわなわなと震わせながらも右京――ヴァニッシュと呼んだほうがいいか――に向き直った。
「オレはダルム……ダルム・シュタートだ。この町で何でも屋をしてる」
 オレが言うとそれが意外だったのか、ヴァニッシュが何故か両手をぽんっと打ち合わせて言った。
「何でそっちも名乗ってくれるんどすか?」
「……いや、なんか相手だけに名乗らせるのはいけないなあ、と」
「ダルムはん、あんたええ人やー」
 と言いつつ懐に手を滑り込ませるのは、どうも図が合わない。
 ……あそこから、何が出てくるのか……?
 オレがそんなことを考えていると、ヴァニッシュは意外と速いスピードで何かをこちらに投げてきた。
 カカカンッ。
 オレはそれを、リンガで弾き返す。……これぐらいの芸当なら、シロガネがいなくてもできる。親父にさんざん仕込まれたから。
「……なんだ? これ」
 オレはその、足下に落ちたものを見て疑問符を浮かべた。投げてきたから、てっきりナイフか何かかと思ったのだが、違う。四方の角が飛び出した、薄い……、
「ああ、それ見るの初めてどすか?」
 先ほどまでとまったく変わらない、相変わらずのろい口調でヴァニッシュが言う。
「それ、手裏剣いうんどすえ」
 手裏剣……。
 そう言えば、どこかで聞いたことがある。どこかで……、
「もしかして、恭国の人?」
 オレは半分驚きを交えて、ヴァニッシュに言う。
「当たりや」
 ヴァニッシュはそう言って口元に笑みを浮かべたかと思うと、突然音もなく姿を消した。
 ――さすがは『姿を消す(ヴァニッシュ)』と呼ばれるだけのことはある。
 オレはその場に立ったまま辺りを見回しながら、ヴァニッシュに言った。
「なあ、だったら海、見たことあるよな?」
「何でそんなこと聞くんどすか?」
 後ろから声がして、オレはほぼ反射神経だけで振り向く。……でももう、そこには誰もいない。
 オレは体の向きを元に戻して、再び口を開いた。
「ちょっと、知りたいことがあってな」
「何どす?」
 次は右隣から声がするが、またその姿ははっきりと確認することができなかった。しかし消えるときの残像だけは、目の端に残っている。
 ……上、か?
 まだ、断定はできない。
 オレはもう一度――そして最後の質問を、口にする。
「海が見えて、物凄く綺麗な朝焼けが見られる場所……知ってるか?」
 これは、オレの一番聞きたかったこと。
 そして今が、たぶん最初で最後のチャンスだ。
 しっかりした世界地図すらない今の時代、国から国を旅するような物好きはそうそういない。そしてその物好きにオレが出会える確率なんて、たかがしれている。
 その物好きがその場所を知っているかどうかなんてわからないが、それでも聞く価値は十分ある。
「残念」
 ヴァニッシュの声が、降ってくる。
 ……外れか。
 オレは胸中で嘆息しながら、前方上空に目をやる。
「確かにわては恭の人間どすけど、わての故郷は海なんか見えへん、山の中なんよ。それに他の国は通らずに直接エルツに来たんや。……悪いけどわてもダルムはんと同じで、海は一度も見たことないんどす」
「そう。ありがと」
 オレはヴァニッシュの姿をしっかりと見ながら、ため息混じりに言った。
 ……恭は海に面してる国だから、もしやとは思ったんだけどなあ。
 世の中そうそう、うまく行くものではないらしい。
「さて、話はここまで。再開する?」
「いつでもええどすえ」
 ……とは言ったものの、これはどうしたものか。
 やっと見つけたヴァニッシュは、屋根の上四、五メートルのところにいた。
 つまるところ、浮いている。
「なあ、降りてきて」
「嫌」
 意外にあっさりと――そしてぐさりと突き刺さるような言葉でヴァニッシュが言う。
 オレは、自分の手の中を見た。
 リンガがある。でも、それだけだ。
 ここで投擲用のナイフでもあれば何とかなる気がしないでもないが、あいにくそんなもの今はない。
 ……まったく。こうなることが初めからわかっていれば、それなりに用意はしたのに。
 オレはとりあえず、リンガを握る手を握り直す。
 だいたいあいつ、どうやって浮かんでるんだよ? シロガネに憑かれてるオレが言うのもなんだけど、オレは超能力とかいうのは信じないぞ。まさかヴァニッシュが魔女っていうこともあるまいし……。
〈ダルム〉
「……何?」
 シロガネの声に、オレは小さく答える。
〈よく見ろ〉
「…………」
 今はとりあえずシロガネに素直に従って、オレはじっとヴァニッシュ――とその周囲――を見た。
 ただの黒い闇ばかりがあると思っていたその場所に、きらりと何かが線のように光った。
「ワイヤー?」
 そういえばヴァニッシュがこのビルに飛び移ったときにも、ワイヤーを使ってたような……。
「なんや。もうバレてしもうたんか」
 オレのさっきの言葉が聞こえていたのか、ヴァニッシュが言う。
「でも動くときは気いつけて動きいや。下手すると、首がすぱーんと取れますえ」
 御忠告どうも。 ……でも悪いがオレは、この場所を動く気はない。まあヴァニッシュがさっきオレの後ろに来たり右に来たりといろいろしてたからその辺りにワイヤーのない「穴」があるはずなんだけど、オレはそれを探すなんて面倒なことはしたくないし。
 オレはリンガを鞘に納めると、それを腰の位置に持っていって、構えた。
 ……そしてリンガを、鞘から一気に、抜き出すっ!
「……っ!」
 満月の光を受けて、リンガが輝きながらオレの目の前を左から右に走った。
 一瞬遅れて、オレの周りのワイヤーが一斉に緩む。
「ひょわあああああっ!」
 ヴァニッシュが変な悲鳴を上げながら、屋根の上に落ちた。
 どすんっ。
「なあ」
 痛そうに腰をさするヴァニッシュに近づいて、オレは言った。あくまで笑顔で。
「鐘、返して♥」
「うううー」
 瞳をうるうるさせて同情でも誘う作戦なのだろうが、目隠しをしているために効果はまったくない。
 そのことにようやく気づいたのか、ヴァニッシュは変な泣き声を止めてすくっと立ち上がった。背中から、鐘の包みを下ろす。
 その動作が意外なほどあっさりしていたのに、オレは思わず声を上げた。
「……いいの?」
「わてはダルムはんには勝てそうにないどすから。こんなところで命落としとうないし」
 オレはその言葉に、首を傾げた。
「オレが、お前より強い……?」
 シロガネと同調してるならともかく、今の素のオレが?
「そや。……あのワイヤー、今まで切られたこと、一度もなかったんどすえ」
 そう言って、屋根の上に置いた鐘の頭をこんこんと叩く。
「ああ、そや」
 突然、ヴァニッシュが言った。
「さっきの朝焼けの話な。わて今までいろんなところの空を見てきたけど、ここが一番、何てものはなかったで。見た場所が違うから、比べることなんてできんのや。……みんな、一番どすえ」
 それだけを言って、ヴァニッシュはこの場を去っていく。
 屋根から屋根へと渡っていくヴァニッシュの姿は、すぐに夜の闇にまかれて見えなくなった。
 それと同時、ふつふつと怒りが――今までどうにか押し込めていた怒りが湧き出てくる。
「ルーヴィス……」
 ぎり……と歯を食いしばりながら、その名前を口にする。
「こ・の・ヤ・ロォーっ!!」
 今この場にいないルーヴィスの代わりにオレの頭上に悠々と浮かんでいる満月に向かって、オレは叫んだ。


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Photo by Natuyumeiro