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一章 秋の中の春の陽気は厄介ごとを連れてくる
「でかいなー」
おもわず感嘆の声を漏らすほど、本当にそれはでかかった。ひょっとしなくても、この町で一番大きいと思われていたヴァルデ銀行――ルーンの家が経営してる銀行――よりも大きい。だいたい、階数が違う。ヴァルデ銀行が二階建てなのに対して、このフリウデパートは三階建てだ。そりゃあ銀行とデパートじゃあ必要になってくる部屋数とかも違ってくるだろうからこういうのもありなんだろうなあとは思うけど……。でもヴァルデ銀行っていったらこの町のドンみたいなものだぞ。どう見てもこのデパート、喧嘩売ってるようにしか見えないんだけど、本当に大丈夫なんだろうか?
おまけにここに、そのヴァルデ銀行(この町のドン)のご令嬢がいるっていうのに……。
「フッ。うちの融資を受けておきながらこんなものをつくるなんて……いい度胸ですわ」
……今のは、聞かなかったことにしよう。見なかったことにしよう。
外見を言うとこのフリウデパートは一見しただけじゃあなんだただのちょっとした三階建てかって感じだけど、それは一方向からしかものを見ていないから。一本に伸ばしたら六、七〇〇メートルぐらいありそうな建物をコの字型に曲げているのが、このフリウデパートだ。土地面積的にはここよりもヴァルデ銀行のほうが大きいけど、三階がある分、多分こっちのほうが大きい。おまけに建物に囲まれた中央の空きスペースには、噴水なんかが設置されている。……完全に喧嘩売ってるよ、ここ。確かどこかで聞いた話だと、このフリウデパートを建てた社長さんはこの国――エルツの出身じゃないらしい。北のヘファイストスとか言ってたかな? 一〇年くらい前に一度旅行でこの国に来た時、この町のレンガ(この町――イザールの建物はみんなレンガで、特に屋根は赤レンガに統一されてる)に惚れたらしくって、いつかこの町に店を出すって決めてたらしい。金持ちの夢はここまで壮大なものなのかって思ったけど……いくらなんでもここ一番のヴァルデ銀行に喧嘩を売るのはなあ。それに喧嘩を売るのがその辺の企業ならともかく、自分たちに融資をしてくれる銀行様だぞ。……多分このデパート、そう長くは持たないな。
……そういうことを、ラーメンをすすりながら考えるオレ。ちなみに、オレが食べているのはとんこつラーメンでルーンが食べているのはこの店の一押しメニュー、スペシャルラーメンだ。スペシャルなんて言葉だけじゃあ何が入ってるかわからなくって恐ろしかったからオレは注文しなかったけど、ルーンは迷わずそれを注文した。出てきたのは醤油とんこつのスープをベースにしてそれにこの店自慢の秘伝のたれを加えたスペシャルなスープ(と店長は言ってた)の上にまあごく一般的なラーメンの具たちと、なんだかよくわからない物体がのってるラーメンだ。その謎の物体については店長は何も教えてくれないが、今まで味わったことのない不思議な味がして、どうやらそれがうまいらしい。オレはそんな謎の物体、絶対に食べる気はしないけど、この店の行列ができるほどのヒットの裏にはこの謎の物体があるらしい。
「不思議な味でしたわー」
ラーメンを食べ終わったルーンが、ほんわかした表情でどこか遠くを見つめて言う。なんだかルーンが、違う世界にトリップしてる気がするのは何なんだろうか? そういえば、外で並んで待ってる時に店から出てきた人の大半がルーンと同じ表情をしてた気がする……。オレ、食べなくてよかったかもしれない。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「そうですわねー」
おーい、ルーン。オレが見えてるかー?
とりあえず金(二人合わせて一四五〇クエル)をカウンターにおいて、店を出る。もう三時近くにもなるのに、店の前にはかなり行列ができてる。さすが雑誌なんかにもよく載ってる行列のできるラーメン屋だ。
「さあ、あのずうたいでかい生意気さんがどんなものか、見に行きましょうか」
「……ああ、そうだな」
自分の顔が、微妙に引きつっているのがわかる。ルーンが怖い。笑顔のまま、ああいうことを言えるルーンが。
オレたちが今出てきたこのラーメン屋のすぐ横には、この町で一番巨大な建物がどんと鎮座している。
デパートの中はそれなりに込んではいたものの、考えていたよりも凄くはなかった。それはやっぱり、この建物が見た目通り――あるいはそれ以上に広いからだろう。
それでもやっぱり、一度迷子になると大変だという事実は変わらない。
「あのやろー……」
うんざりとぼやく。オレは、今一人だ。
ルーンが迷子になった……そういうことだろう。あのほんわかお嬢様なら、考えられないことでもない。ルーンがものほしそうにじっと小さな犬の形をした銀細工のついたネックレスを見ていたから、オレはそれについてた値札とにらめっこして頭の中でいくらになるのか計算していたんだ。それで気がついたらルーンがいなかった。たった何秒か目を離してる隙に、あいついなくなりやがった。多分誰かが熊のぬいぐるみなんかを持ってて、それにつられてふらふらっとそっちに行ったんだろうけどさ。
「まったく……。どこに行ったんだよルーンのやつ。捜すほうの身にもなれってんだ」
起こってしまった厄介ごとは、すぐにでも解決しなけりゃどんどん大きくなっていく。ルーンなんかはその典型的な例だ。下手をすると、はじめからどでかい厄介ごとだったりすることもある。
「こりゃ放送で呼び出してもらったほうが早いかなー?」
たとえ放送しても、ちゃんと指定した場所にルーンが現れる保障なんてどこにもないけど。
〈ルーンなら、怪しい男二人組みについて行ったが……〉
不意に、男の声がする。例えるなら、何だかいろいろと苦労してて実年齢よりも老けて見える二〇代半ばかまあそれなりに生きてきた三〇代前半の男の声だ。オレとしては、かなり聞き慣れた声。
こいつの声は、こいつが意識して他のやつに聞かせようとしない限り、オレにしか聞こえない。
名はシロガネ。恭の国の文字で書くと、白金になる。話せば長くなることだから今は省くけど、簡単に言ってしまえばこいつは魔女たちのつくった精霊の一匹で、オレの左腕に憑いてる。もとは白銀の毛を持った狼だ。オレがいつも左腕に包帯を巻いているのはシロガネが憑いてる証しみたいな感じで左腕に青白いあざがあるから、それを隠すためなんだけど。
そんなことより、
「ルーンが……なんだって?」
こいつさっき、何だかもの凄いことを言わなかったか? 何かこう、厄介ごとの象徴、みたいな……。
〈ルーンは怪しい男二人組みについて行った。我はそう言ったのだ。二度も言わせるな〉
……怪しい男。……ついて行った?
これはまさか……!
「誘拐か!?」
思わず叫んでしまってから、オレは我に返った。ただでさえ他の人たちにはシロガネの声が聞こえていなくてはたから見れば独り言をぶつぶつ言ってる変なやつなのに、そこで――しかもこんなに人の多いところで誘拐なんて妙なこと叫んだら、そりゃあもう手加減なしに注目される。しかもくすくす笑われながら。くっそー、何してんだオレ。
でもだからと言って、唯一の情報源であるシロガネと話をしないわけにもいかない。オレはさっきよりもさらに声を落として、手で口元を隠しながら(こっちのほうがさらに怪しいか?)言った。
「……で、どうしてそれを黙ってた?」
〈ふん。我には関係のないことだ〉
この野郎ォ……。
「お前に関係なくても、オレには関係大有りなんだよ。ルーンに何かあったら、オレの責任になる」
〈我の責任になるわけではない〉
だあああっ。この野郎、絶対いつかしめるっ!
「で、その怪しい男二人組みっていうのは?」
〈黒いスーツを着た二人組みだ。この人ごみの中、明らかに浮いていた〉
黒いスーツの二人組み、ねえ。何だか定番だよな、そういう格好って。よく本なんかでも、怪しい集団は皆黒いスーツで黒尽くめっていうのがあるし。……もしかして今回のって、そういうのに憧れてるマニアの犯行か?
「で、そいつらが何を思ったのか知らないがオレの隣にいるルーンをさらって行った、と」
〈違う〉
何が? だって誘拐ってそういうもんだろ。
〈ルーンはさらわれたのではない。自分からついて行ったのだ〉
……は?
「それは、どういう……」
〈二度言わせるな。ルーンは自分からついて行ったのだ〉
自分から、あんなあからさまに怪しいの(オレが実際に見たわけじゃないから、どのくらい怪しいのかは勝手な想像だけど)について行った? あいつは本当に、何を考えているんだ?
とにかく、そんなに怪しいやつなら何より目立つだろうし、目撃した人だっているはずだ。
「こりゃあ地道に聞き込みでも」
ピンポンパンポーン。
……放送?
『えー……えー……』
何かを言おうとして、そこでぷつりと途切れる。
少ししてから、なにやらぼそぼそと話している声が聞こえてきた。二人の男の声だ。犯人か?
『親分、そんなんじゃ駄目っスよ。放送になってないじゃないっスか。……うるせえなあ、わかってるよ。初めてなんだよこういうこと。オレの声がこのでっかい建物中に聞こえてると思うと、何だか恥ずかしいんだよ。……恥ずかしいとか言ってる場合じゃないっスよ。いじりまくってようやく動いた機械っスよ。有効活用しないでどうするんスか。……わかってるけどよお、こういう時って、どういうことを言ったらいいんだ? ……とりあえず誘拐っスからね。それらしいことを言ってみるのはどうっスか? ……それらしいことか。そうだな。よし、少し待ってろ』
そこで再び、ぷつりと切れる。
何だったんだ? 今のは。あいつらの様子から言って、何かしら目的があって誘拐したようには思えない。本当に犯人か? ……でも誘拐って自分で言ってたからなあ。
「ねえお姉さん、この放送がどこから流されてるのかわかったりする?」
とりあえず、犯人たちの居場所さえわかればいい。そうすれば(多分)こっちのもんだ。
オレに妙なこと(だよなあ。普通こんなことしないって)を聞かれたその従業員らしきお姉さんは、少し困ったような顔をして言った。
「ごめんなさいね。放送設備はこれでも最先端なんだけれど……まだ流せるだけで、この放送はどこから流れているっていうのはわからないの」
結局、『文明の遺産(テクノロジー)』の問題か。いつになったらオレたちは、自分たちの力だけで何かをつくり出せるようになるんだろうな。
「ありがとう。じゃ」
「ああ、待って」
「?」
お姉さんが、何かを思い出したのか手をぱんっと合わせながらその場から去ろうとしたオレを呼び止める。
「この放送、多分この階じゃないわ。放送機材が設置されているのはこの建物の中で四か所だけなの。一階と三階の北側に一つずつと二階の東側と西側に一つずつ。一階で放送ができるところは、ここだから」
にっこりと笑って言うお姉さん。……その一階で唯一放送ができるところがここなら、何で多分とか言うかなあ。それにそういうことはもう少し早く言ってくれ。オレは今からこのバカでかい建物を隅から隅まで走り回ろうとしてたぞ。まあ、ちゃんと思い出してくれたからいいんだけど。
「ありがとう、お姉さん」
とりあえずいい情報をくれたってことで、笑顔で礼を言うオレ。営業スマイルだけど。
「はうう」
とりあえず、顔を真っ赤にして熱い視線を投げかけてくるお姉さん(もしかして、気に入られた?)は無視して、オレは二階に続く階段へと向かった。刹那。
『おい子分Aよ。これでいいのか? ……子分Aはやめて下さい、親分。……うむ、すまなかったな子分A。……もういいっす。で、これが今作った文面っスか? ……うむ、そうだ。名を脅迫文その四という。……その四っスか? ……そう、その四だ。このほんのわずかな時間にオレは三度ほど書き直した。……それにしては字が間違ってるっスね。……細かいことを言うな、子分A。……わかったっス。……それで、文章はこんなものでよいのか? ……はい、そうっスね。でも字が……ボコッ……問題ないっス。……そうか。では……』
そこで会話がぷつりと途切れる。……心なしか、親分の口調が変わってないか? さっきはこんな威張り口調だったっけ?
『えー、フリウデパートにお越しの皆さん、こんにちは』
そこで少しの間が空く。
「こんにちはー」
「え!?」
近くにいた子供が放送に対して言葉を発する。……今の間は、このための間だったのか?
『我々は誘拐犯で、先ほど一人の少女を誘拐しました。返してほしかったら九千五百七十四万クエルよこしなさい。以上』
……それだけか? それだけなのか?
「ちょっ、待てよ! まだ他に言うことあるだろうが!」
思わず叫ぶオレ。
『ちょっと親分、思いっ切り大事なところが抜けてるじゃないっスか。……き、緊張してほとんど頭から抜け出たんだよ! ……誰も何も見ないで言えなんて言ってないっすよ! ……むう、そういえばそうだな』
もうそんな口喧嘩どうでもいいからさっさと言え! 場所を言え!
『えー、先ほど言い忘れたことがありましたのでここで言わせていただきます。誘拐した少女は金髪碧眼、くるくる立てロールの超キュートな思わず萌えーとか叫んでしまいそうな女の子です。我々は三階のおもちゃ売り場にいますのでちゃんとお金を持ってくるように。以上』
……それで終わりか? 終わりなのか?
少し待ってみても、もうそれ以上の放送はない。
「まあ、でも……」
誘拐されたのがルーンっていうことが確認できた(何だか凄い説明だったけど)こととルーンのいる場所がわかったからよしなんだけど。
「とにかく、三階に行くか」
もちろんあんな大金持ってないけど、そんなのは多分、なくってもかたはつく。あいつら、バカっぽいし。
「どうすればいいんだ? これは」
オレは目の前にある巨大な鉄の壁を睨みながらつぶやいた。
三階まできたはいいものの、そこは人で溢れかえっていた。このデパートに来てる客たちの半分はここにいるんじゃないかっていうような数だ。その人ごみをかき分けながら何とかここまで進んで来たものの、立ちはだかっていたものがこれだ。
防火シャッター。
まあ確かにこんなことでもしない限り、オレよりも先に警備員やら何やらがおしよせてくるだろうなとは思うけど。
でもこれじゃあ、オレだって通れねえじゃねえか!
〈狼牙(リンガ)を持ってきておくべきだったな〉
再び、シロガネの声。
「うるせー」
ぼそりとつぶやく。リンガっていうのはオレの愛刀だ。オレとシロガネの仲介みたいなもので、その刃はシロガネの牙。本来はいつも肌身離さず持っておくべきものなんだろうけど、さすがにこの町中に刀を持ち出すのはまずいだろう……っていうことで、オレは今リンガを持っていない。まあ確かに、リンガさえあればこんなもの、ほんの数秒で鉄屑にする自身はあるけど。
「どうするかなあ」
ため息混じりにつぶやく。そりゃあこれくらいのもの、どうにかしようと思えばどうにかすることぐらいできるけど。……でも、面倒くさいよなあ。
「手伝いましょうか?」
「ん?」
突然隣から声がして、オレは振り向いた。
「あなたが、誘拐された女の子のお連れさん?」
「まあ、そうかな」
適当に言葉を返しておく。
年はオレとそう変わらないくらいの、女だった。背もオレと同じくらいで、髪は長い黒髪を頭の上のほうでポニーテールにしている。目は、夜の月のような金色だった。ぱっと見、猫という印象が強い。服装は白のシャツに茶色のフレアスカート。そしてその上に丈の短いベージュのトレンチコートを着ている。まあ、どこにでもいそうなお姉さんだ。
「何だか大変なことになってるけど、どうしたの?」
女は、くすくす笑いながら言う。
「さあ? オレだってよくわからないよ。二人でここに来て、あいつがものほしそうな目してたから買ってやろうかなあとか思って少し目を離した隙にいなくなっててさあ。そしたらあの放送だろ? もう本当、勘弁してほしいよ。厄介ごとをつくるのは」
本当に、どうしてこんなに厄介なことになってるんだよ。ただの迷子ならまだよかったのに。
「二人で……デート?」
女が、きょとんとした様子で言う。何だよ、オレはそういう柄じゃないっていうのか?
「まあ、そんなもんだ」
とりあえず、そうとでも言っておく。これで仕事だなんて言ったら、また何だかんだ言われるに違いない。それもこの女だけじゃなくって、この場所にいてオレたちの会話を聞いているやつら全員(かどうかは知らないが)に。
「でも、どうするの? この防火シャッター、けっこう分厚いわよ」
言いながら、拳でこつんと叩く。
ゴオン……。
重たい音だ。一〇センチくらいはあるかな?
「こりゃあ、素手じゃあ無理だな」
「もちろん。ま、世界最強の豪腕の持ち主なら別だろうけれど?」
くすりと笑って、女が言う。どこの誰だよその世界最強の何たらっていうのは。どこかのマッチョマンか?
「……向こうから開けてくれたりはしないのかな?」
「どうやってあんたが来たことを向こう側に伝えるのよ。この壁を、声が通るとでも思ってる?」
無理だよなあ、やっぱり。
「手伝おうか?」
女が、薄い微笑を浮べて言う。お前みたいな細腕の女に、何ができるっていうんだよ。
……待てよ?
「なあお前、ひょっとしてナイフとか持ってたりしないか? できれば大型……いや、中型でもいいんだけど」
「え……」
ぽかんとした顔で、女はオレを見る。まあ、これが普通の反応か。ナイフとかをこんな女が普段から持ち歩いてたらやばいよな。この世も末だよな。
「あるにはあるんだけど……」
女がコートの中に手を滑り込ませて、言う。コートの隙間から、ナイフの柄らしきものを握った手がちらりと見える。本当に持ってるのか!?
「何せこんな格好だから、たいしたものは持ってないけど。……中型(こんなの)で、いいなら」
「か、借りてもいいか?」
「どうぞ」
女がコートからナイフを出して、オレはそれを受け取る。見た目は地味な、どこにでもありそうな中型のナイフだ。でも、これはそこらに転がってるようなナイフじゃない。見ただけじゃあわからないが、持ってみるとすぐにわかる。……とても軽い。なるほど、これならこんな女にでも扱えるわけだ。多分これは、かなり高かったんじゃないか? 裏でしか手に入らないだろうし……。
まあ、この女がどこでどんな仕事をしているのかは置いとくとして、とにかく今はこの防火シャッターをどうにかしないとな。そのためにナイフも借りたんだし。
「危ないから、ちょっと退いてて下さいね」
とりあえず、周りの人たちに警告しておく。後でどうのこうの言われるのだけはごめんだ。
ナイフを逆手に持ち替えて、振り上げる。
「ふっ」
吐く息とともに、一気に振り下ろす。
鉄の壁に、裂け目ができた。かなり深い。半分は裂けたか? このナイフ、切れ味も最高だ。もとがいいものあるんだろうけど、この女がちゃんと手入れをしてる証拠でもある。……やっぱり気になるなあ、この女の仕事。
「ありがと」
ナイフを返すと、女は首を傾げて言ってきた。
「もういいの?」
「ああ。あれだけ弱れば十分」
それだけ言って、深い傷の入った防火シャッターに向き直る。
「おらっ」
ガアアンッ。
右足で、思いっ切り蹴りを入れる。周りの人たちが半ばひいているような気もするが、この際そんなことをいちいち気にしてなんかいられない。
「もう一発……!」
ガアアンッ……ピシッ。
再度蹴りを入れると、そこから縦にひびができた。それがドミノ倒しのように、シャッター全体に広がっていく。
「フィニッシュ」
こつん。
ひびだらけになったシャッターを、軽く拳で叩く。刹那。
ドオ……ン。
防火シャッターがばらばらに砕けて、その場に崩れた。いくつかの細かい破片が飛んでくる。腕でそれから顔をカバーしながらちらりと見ると、奥のほうに人影が見えた。多分、ルーンと誘拐犯たちだ。
周りの野次馬たちがぎゃあぎゃあと叫んでいるのは無視して、オレは瓦礫と化したシャッターを飛び越えて人影のほうに近づいて行く。
人影が一人、立ち上がった。
「まあ、ダルム様」
「ルーン……やっぱりお前か」
予想通りの声が聞こえて、オレの中に微かにあった希望が砕け散った。誘拐されたのがルーンじゃなかったらっていう、なんとも自分勝手な希望だけど。
「こんなとこで何してんだよお前は。ほら、帰るぞ?」
オレがそう言いながら近づいていくと、突然ルーンの隣にいた二つの人影が立ち上がった。
「ぬあにいいっ!? 貴様がダルム・シュタートか!」
二人のうち、どちらかというと体格のいい(単に太ってるだけ?)ほうがいきなり叫ぶ。しかも何でオレのフルネーム知ってるんだよお前!? まあ、ルーンだろうなとは思うけど。
「こいつがルーンちゃんを独り占めしてるハレンチ野郎っスね、親分!」
「ちょっと待て! 誰がハレンチだ、誰が!」
もう一人のわりと痩せ型のほうがオレを指さしながら叫んで、オレはそれにほとんど反射神経だけでツッコミを入れる。……こういうのをツッコミって言っていいのかはわからないけど、これは弁解しておかないといろいろまずいだろう。だって思いっ切り大声で叫ばれてるし。きっと……っていうか絶対、後ろのギャラリーたちにも聞こえている。
「ルーンちゃんは渡さんぞおおっ!」
親分のほうがオレを睨みつけるようにして叫ぶ。ちょっと待て。ルーンを誘拐したのはお前たちのほうだろう? どこでどうなってお前らがルーンをオレに渡す渡さないの話になったんだ? なんかちょっと、おかしくないか? 返す返さないの話なら、まあわからんでもないんだが……。
「お二人とも、そんなに怒っていては疲れますわよ?」
ルーンが誘拐犯の二人に笑顔で言う。
「はーい、ルーンちゃん♥」
ルーンにでれでれと鼻の下を思いっ切り伸ばしながら言って、二人は再びそこに座る。そして何故か、ティーカップを手にとって……、
ちょっと待てえええっ! 何なんだよお前らあああっ!
オレが気づくのが遅かったのかもしれないが、あいつらの座っているのは庭にでも置いてそうな白いイスで、その中心に置かれているのは同じく白いテーブルだ。そしてその上には、ティーポット、ティーパック、砂糖の入った小さな箱、クッキー……。
「お前らなんで茶なんてしてるんだよ!?」
オレが半ば叫ぶように言うと、親分がティーカップを音も立てずにカップ受けに置いて、オレのほうを向いた。
「いや、ただ待っているだけというのはあまりにも退屈で」
言葉だけ聞いていればちょっと真面目か普通には聞こえるんだけど、顔を見てしまうとそんなものは跡形もなく砕け散る。
親分(もちろんもう一人も)の顔は、今にも溶けてしまいそうなほどほわほわとしている。
「そこでルーンちゃんが、お茶でもしませんこと? と誘ってくれてな」
……駄目だ、こいつら。完全にルーンの春の陽気に犯されてやがる。さっさとルーンから引きはがして、正常に戻してやらないと。まあ、こいつらはもとが正常じゃあなさそうだから、ちゃんと正常になるのかは保障できないけど。
「……もういい。ほら、帰るぞルーン」
ため息混じりに言いながら、オレはルーンのほうに歩いていく。すると急に、親分が立ち上がった。
「待て小僧! 自分だけ名乗っておいてオレたちには名乗らせないつもりか!」
ちょっと待て。オレは名乗った覚えなんかないぞ。勝手にルーンが言ったんだろうが。それにオレは、もうこれ以上あんたたちみたいなわけのわからん奴らと深く係わりたくないんだ。あんたたちの名前なんてどうでもいいから、もうオレをほうっておいてくれ。
「我が名はケムニッツ・ドレスデン!」
だからやめろって。あー、聞きたくないー。これ以上係わりたくないー。
「そしてオレはシュレースヴィヒ・ホルシュタインっス!」
親分に続いて子分のほうも名乗って、そして最後には二人でテーブルの前に出てきてポーズをきめる。……何がしたいんだ、お前らは。しかしそれよりも子分の名前……。
「シュークリーム・ホルスタイン……牛?」
ぼそりとつぶやくオレ。
「牛じゃないっスううっ!」
急に叫びながら、涙を流しだす子分。……聞こえてたのか、今の。けっこう小声で言ったつもりだったんだけど。でも、本当にそう聞こえたんだからしょうがないよな。うん。
「オレは、牛じゃないっスー……」
何だか物凄く弱々しくなって、へなへなと倒れていく子分。オレはそいつらの目の前まで歩いていくと、言った。
「その黒スーツ、はっきり言って似合ってないぞ」
親分――ケムニッツの顔が、いきなり頭の上にたらいが落ちてきたかのような驚愕の表情になる。
「そんな……でも誘拐といえば黒尽くめで」
「おりゃ」
「はうあっ」
オレが軽く首に手刀を叩き込むと、それで沈黙するケムニッツ。子分のほうは、あれが相当ショックだったのか、すでに気絶していてオレが手を加えるまでもない。
「ダルム様、この方たちは大丈夫なんですの?」
ぱたぱたとオレのほうに駆け寄ってきて、ルーンが言う。しかしその青い瞳に、罪悪感のかけら……はともかく、この二人を心配する色はない。
「とりあえず今は眠ってるだけだから、心配はいらないな」
そう言って、ルーンの頭にぽんっと手を置く。
「もう知らない人について行ったら駄目だぞ、ルーン」
「はい、ダルム様♥」
笑顔でそう言うルーンの顔には、反省なんて色はどこにもなかった。きっとこいつの頭の中では今回の事だって、初めて会った二人のおじさんと楽しくお茶会っていうことで片付いてるに違いない。
「ではダルム様、お元気で」
「ん。気をつけて帰るんだぞ」
そう言って、ルーンの背中を見送るオレ。多分これを知らない人が見たら、なんて不親切な彼氏なんだとか思うんだろうなあ。でもまあ、ルーンが送りはいらないって言うんだから、オレはその言葉に甘えるけど。
ぐ……と一度だけ背伸びをして、体の緊張をほぐす。
今日はいろいろと大変な日だった。特にルーンの誘拐が。犯人がバカだったのは、不幸中の幸いなんだろうか? ……オレにはそれが、いまいちよくわからない。
「さて、帰って夕飯の支度でも」
「お疲れ様」
「?」
急に後ろから声がして、オレは歩みだそうとしていた足を止める。振り向くとそこには、いやに見慣れた顔があった。
「いたのか、ルーヴィス」
オレが言うと、そいつは笑いながら言った。
「おう。面白いもの、見させてもらったぜ」
「見てないで手伝えよ」
オレは言うが、こいつがそんなやつじゃないことくらいわかってる。こいつは、厄介ごとがあるとそれを少し遠くから笑って眺めてるようなやつだ。
名前はルーヴィス・ハーウェン。隣町のザーレに住んでて、ときどきこの町にやってくる。身長は一九〇センチ弱。年は確か、今年で二十五だ。肩ぐらいまである金髪を、後ろで紐で結んでいる。両の金色の目は、今は右目だけがその色を覗かせている。左目は、一本の傷跡がそのまぶたを閉じたままにしていた。
「そういえばダルム、まだ援交してたのか? お前」
「援交じゃねえって、あれは」
オレがそう言うと、ルーヴィスはいやな笑みを浮かべて言った。
「何言ってんだよ。金貰ってるんだろう? だったら立派な援交だ」
「……それ、今日の朝にも言われた」
「エルか?」
「……まあ、そうなんだけど」
うんざりとオレが言うと、ルーヴィスはその笑みを強くして言った。顔は笑っていても、その金色の目は真剣だ。
「いい仕事、持ってきてやったぜ」
そうだ。一つだけ忘れたらいけないことがあった。
こいつ――ルーヴィスは、世界で一、二を争うほどの厄介者だ。それもルーンを値を張るくらいの。
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Photo by Natuyumeiro