一章 →
――空はいいなあ……。
プロローグ
どこまでも続く、淡い水色の空。
その果て――いや、その向こうへ行ってみたい……そう思い、かつての偉人たちはいろいろなことを試みてきた。そしていろいろなモノをつくり出し、その空の向こう――宇宙と呼ばれる果てのない空へ飛び立った。……少なくとも、オレの読んだ数少ない文献にはそう記されている。
そして今、人は空を飛ばず、鳥だけがあの大空を飛んでいる。
はっきり言って、羨ましい。オレだって、一二〇年くらい前に生まれていれば、あの空を――あるいはその向こうへ行けたのかもしれないのに。
……今はもう、あの頃の技術は一つも無い。――無いに等しい。大体、昔のやつらがあんなことをしていなければ、今みたいにはならなかったんだ。おまけにそれをはじめたのが空や宇宙へ行くための乗り物を造った技術者たちだったなんて、本当に皮肉だよ。
でも、そんな彼らの気持ちが少しもわからないわけじゃあない。誰だって怖いさ。自分たちが何年もかけてようやくつくり上げたものと同じようなものを一瞬でつくってしまうようなやつがいたら。大多数の者たちが持っていないような、不可思議な力を持っているようなやつがいたら。
『魔導師』がいたんだ。あの頃は。……まあ、ほとんどが女だったから今じゃあ皆『魔女』って呼んでるけど。
その魔女に、喧嘩を売ったんだ。さっき言ったように、技術者たちが。今から大体一〇〇年くらい前に。……馬鹿だよ、はっきり言って。そのことは今では『魔女狩り』って呼ばれてるんだけど、実際はそんなにきれいなものじゃなかったらしい。当たり前といえば当たり前なんだけど。そのことについての文献はなぜだか数が少なくて、どうも詳しいことがわからない。結局言えるのは、先人たちは喧嘩を売った相手が悪かったってことだ。一方的な虐殺で、確かに結果的には魔女を皆この世から消し去ったわけなんだけど、その代わりに大きなモノを失った。科学、医療……色々な技術を。魔女たちは最後の抵抗に、先人たちの築いてきた技術を葬った――いや、正確に言うと、隠してしまった。その頃は『魔女狩り』の末期で、それほど力も人手もなかったんだと思う。それは色んな所に隠されていて、今のオレたちが使っているモノ――例えば汽車とか――もその掘り出した内の一部だ。今オレたちは、それらをまとめて『文明の遺産(テクノロジー)』って呼んでるけど。そしてオレたちは、呪いも受けた。『テクノロジー』を掘り出しても、決してそれをそれ以上のモノに発展させることができないっていう呪いだ。……だからオレたちは、過去に頼るしかないんだ。結局。神に一番近い所に行こうとして、自分たちよりも神に近いやつらに喧嘩を売った愚かな先人たちにさ。それにしても……、
「本当、空はどこまで続いてるんだろうなあ」
空に浮かぶ大きな白い雲を見ながら、ぼんやりとつぶやく。行けるものなら、いつかあそこに行ってみたい。……鳥にでも乗ったら、あの空を飛べるだろうか? 世界中を探せば、人が一人や二人乗れそうな鳥もいるかもしれない。でも、それは多分無理だ。北のヘファイストス王国はともかく、東の恭国なんかは一二、三〇年前まで他国とは一切交流をしない――いわゆる鎖国をしていた。おまけに西のリディウス国と南のメディウス国は、もとは一つの国だったのが一〇〇年にも及ぶ内乱で二分した国だ。いまだに安定していない。おまけにまだ詳しい世界地図なんかできていないのだから、オレが世界地図を作ってやる! っていうやつやよっぽどの変わりもの――もとい、腕に自信のあるやつでなければ世界中を旅したりはしない。だからオレは、世界を回るつもりはない。……まあ、今すぐ旅に出る気はないってだけなんだけど。やっぱりさ、ほら、金銭面で問題が。
……そういえば今日は、珍しく仕事がない。親父が旅に出てて(あいつはどっちかっていうと後者だな……)おふくろは七年前にあの世に行ったから、実質家にいるのはオレ一人で、だから生きるための金はオレが一人で稼がなくちゃならない。そんなわけでとりあえず、オレは『何でも屋』をやってる。何で『何でも屋』なのかっていうと、そのほうが稼げるかな? って思ったから。単純な理由だけど、一つのことだけに執着するより確実に稼げそうじゃない? 少なくとも、オレはそう思ってる。たいてい毎日洗濯だとか犬の散歩だとか庭の草取りだとかを頼まれることが多いんだけど、今日は『朝五時に起こしてください。叩いてもつねってもいいので』っていうなんかよくわからない依頼だけだった。まあ、これから冬場に向けて煙突掃除の仕事が増えるだろうから、ちょうどいい休みといったらそうなんだけど。
……なんだかなあ。こうやって空ばかり眺めていていいんだろうか?
時々仕事がなかったりやけに少なかったりするときは、本当にそう思う。一日中仕事が忙しいときは、ちくしょう、洗濯ぐらい自分でやろうとは思わないのか? って思うけど、一日中暇だと、何だか凄く不安になる。仕事がないってことは稼ぎがないってわけで、稼ぎがなければ当然食べる物もない。たとえ庭のプランターにトマトやきゅうりを植えていたって、その不安は同じだ。売れない芸人の生活ってこんなもんなのかな? とかいうことを考える余裕までできてしまう。
あー。仕事がほしい。今日はもう十分空は眺めた。なんたって五時にあの仕事を終えてからずっと今までここ――オレの住んでいる地区の南端にある公園の丘みたいになっているところ――で空を眺めてるんだ。もう六時間は経っただろう。太陽が真上に近いところにまで昇ってきている。……いい加減、仕事がほしい。この際、どんな厄介な仕事でもいいからさ。
「ほーら、やっぱりここにいた」
「まあ、本当ですわ」
……来た。厄介なのが。世界で一、二を争う厄介なのが。
知っている――いやなほど聞きなれた少女二人の声がして、オレは面倒くさそうに上半身だけを起こした。視界の景色が青い空から緑色の木々や芝生、その向こうに見える赤い屋根にとってかわる。
その景色の中に、やっぱりあいつらはいた。
「何? あんたまた空ばっかり眺めてたわけ? 何が面白いのよ。バカみたい」
「うるせー」
出会い頭にボロクソ言われて、オレは半眼で答える。心なしか、こめかみのあたりが引きつっているのは気のせいだろうか? まあ、こんなのは日常茶飯事でもう慣れたけどさあ。
「あら、空を眺めることは別に悪いことではありませんわ。それよりもわたくしは、最近の方々は空を見ることを忘れていると思いますの。ダルム様はとってもステキですわ」
「ほら、ルーンだってこう言ってるぞ。お前もたまには空を見ろ」
「あたしはそんな暇人じゃないのー」
ベーっと舌を出して反抗するエル。黙ってそっぽを向くぐらいならまだかわいげがあるものの、これじゃあまるで子供だ。子供。
このエルっていうのは、オレの幼なじみ。本名エル・ラーゲン。十七歳。家はパン屋をやっていて、オレの家の隣だ。でもその割には、エルの料理は最高にまずい。普通に作ればいいものを、余計なものを入れたり醤油と墨汁を間違えて入れたり(実際にあったんだよ、そういうことが)するもんだから、もう食べられるような代物じゃない。いつもオレに何か作ったら持ってきてくれるんだけど、オレはそれを食べて一週間近く寝込んだ覚えがある。もう昔の話だ。それなのに懲りずにエルはその殺傷力抜群の料理を作り続ける。自身ありげに持ってくるやつなんか、特にそうだ。たまに自信なさげに持ってくるやつなんかは、普通の味がするんだけどなあ。ちなみに髪は赤みがかった茶色で、たいていいつも頭の後ろで一つにまとめている。目は深い茶色。身長は、オレより少し小さいくらいかな。
そして、その隣に立っているのがルーン。本名ルーン・ヴァルデ。十四歳。言葉遣いなんかからもわかるように、こいつはお嬢様だ。確か家は大手の銀行(この町のど真ん中……駅のすぐ近くに建っている横幅が三〇〇メートルくらいありそうな二階建ての赤レンガの建物が確かそれ)で、裏では『テクノロジー』の発掘もしているらしい。ちなみに温室育ちなもんだから、常識ってものを知らない。たまにこの町に来るオレの知り合い(友達なんかじゃない。断じて)によく妙なことを吹き込まれていたりする。例えば、握手する時は手に画びょうを隠し持っているように、とか。それで、どうしてそんな深窓の令嬢がオレみたいな一般庶民と知り合いかっていうと、二年ぐらい前にこの辺りの貴族の家を荒らしまわっている怪盗がいて、オレは『何でも屋』としてここ――ルーンの家の警護を任されたんだ。まあ、このオレが警護してたんだから当然怪盗は家の中に入ってくる前に締め上げて警察に突き出したんだけど、問題はそこじゃあない。その時、ルーンに気に入られたんだ。こういうのを一目惚れっていうのかどうかはわからないけど。それからルーンはオレにひっついてくるようになって……何なんだろうな、これは。ルーンとエル。あいつら仲はいいが、たまに怖い顔して火花を散らしていることがある。原因はオレか? あいつら二人の共通点みたいなものといったら、それくらいしかない。
「ほらダルム、あんたの家をわざわざ訪ねてきてくれた金づるが、あんたがいなくって泣きそうな顔してたから連れてきてあげたわよ」
「いやお前、本人の前でそういうこと言うのはどうかと思うぞ。オレは」
……まあ確かに、本当のことなんだけどさ。オレは仕事で忙しくてなかなか時間が取れない(今日みたいに暇な時もあるけど)から、ルーンが仕事を依頼してくるんだ。理由はもちろんオレに会いたいからとかオレを独り占めしたいからとかだろうけど。それでその仕事内容っていうのは……まあ、簡単に言えばルーンのお守り。言葉ではどんな風にも言えるけど、これがけっこう厄介なんだ。エルと合わせればもう最強。オレが世界で一、二を争う厄介なのって言ってたのはこのことなんだけど。まあ、仕事内容が単純なのにルーンはがっぽり金をくれる(本当にがっぽりくれるんだ。これでもかって言うくらい。……やっぱりお嬢様は違うなあ。どっかの殺人未遂的な料理を作るだけのやつと違って)からいい金づるなんだけど。
でもやっぱり、本人の前で言うのはどうかと思うぞ、オレは。
「だって本当のことじゃない」
そう言って、エルが膨れる。だからそういうところが子供なんだって。子供。
「あ。わたくしは気にしていませんので、その辺はどうぞお気遣いなく」
ルーンがにっこりと笑って言う。まったく、こっちのほうが大人じゃないか? オレたちより三つ下だぞ、三つ。しかも秋になって最近だんだん寒くなってきたのに春の陽気のようなオーラまでまとって。……エル、少しはルーンを見習え。
「それと、わたくし泣いてないかいませんわ。ダルム様がいらっしゃらなくって少ししょんぼりしていただけです」
これまた笑顔で言うルーン。……おい、何気にこめかみに浮かんでいるものは何だ? ある意味凄いぞ、お前。
「何言ってんの。泣いてたじゃない。ダルム様ー、どこに行かれてしまったのですかー? って」
「だから、泣いてなんかいませんわ! わたくしはあなたほど子供ではありませんもの」
お、よく言ったぞルーン。そうだそこの子供に思いっ切り言ってやれ。
「大体エルさんはわたくしより三年も長く生きていらっしゃるのにどうしてそう大人気ないんですの? 同い年のダルム様と比べると一目瞭然。子供にしか見えませんわ。教養がなってないんですのよ、教養が」
「だー! 何かすっごくむかつくわね、このガキ!」
あーもう、またすぐむきになって。これだから子供だっていうのに……オレからも一回言ってやろうかな、子供だって。この調子じゃあ、いつまでたってもエルは大人になれそうにないし。
「みっともないですわよ、エルさん!」
「何よ、このませガキ!」
それにしても、そろそろ止め時か。オレが原因で喧嘩してる時にオレが間に入るのはもちろん火に油――って言うよりは、オレにとばっちりがくる――だけど、こういう時はオレが止めないと他に止めるようなやつはいない。たとえあいつがいたとしても、まあいいじゃないのとか言いながら笑顔でこの光景を見守ってるだけだろうし。それにこいつらの喧嘩は、手が出るようなことはないものの、延々と続く。本当、どうして口喧嘩がこんなに続くのかっていうくらい。確か最高記録は去年の夏の四時間三十五分だったっけ。その間二人とも飲まず食わずだったから、どっちかっていうとその喧嘩は終わったっていうより途中で中止になったっていうか……。つまり、二人ともほぼ同時にぶっ倒れたんだけど。
オレは腰をさすりながらゆっくりと立ち上がると、二人の肩をぽんっとたたいた。
「まあまあ、そのくらいにしときなよ二人とも。エルも本当のことなんだから、そこまでむきにならない。な?」
「すいませんダルム様。わたくしとしたことが、こんなことに熱くなってしまいましたわ」
「何すんのよセクハラ! ……何? あんたもあたしのこと子供だって思ってるわけ? あ。ルーン、あんたさっきこんなことって言ったわね、こんなことって」
「ダルム様ー。一般庶民が何か言ってますわー」
「おー、本当だ。何か言ってるな、一般庶民が」
「あんただって一般庶民でしょうが!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐエル。だからそれを止めなってお前は。このままだといつまでたってもオレやルーンにからかわれ続けるぞ。
もういちいちかかわっているのが面倒くさくなったので、オレはまだ一人で騒いでいるエルを無視してルーンに向き直った。ルーンも似たような考えなのか、その空を映したままのような青い瞳にはオレだけが映っていて、エルの姿はひとかけらも映っていない。……ここまでくると、少しエルがかわいそうになってくるような気がするが、でもやっぱり面倒くさいのでその辺のことはほうっておく。
「で、今日は何?」
もういつものことなので予想はついているが、とりあえず聞いてみる。
「デート♥」
ルーンが目を輝かせて言う。予想通り……っていうか、これしかないっていう答えだよなあ。最近ルーンはこんなのばっかりだから、ほとんど習慣化してきてる。やっぱり、ルーンもお年頃なのか?
「じゃあ、今日はどこに行こうか?」
「あ! それならわたくし、今日は考えてきていますの!」
おやまあ珍しい。いつもならその場でじゃあ今日はここに行こうってオレが決めて、ルーンはオレについてくるだけだったのに。
「わたくし、この間できたばかりのフリウデパートに行きたいですわ。確か中央街にあるいつも凄い行列のできているラーメンのお店の隣でしたわ。今開店セール中でとってもお買い得になってますのよ。今日の新聞に折込のチラシが入ってましたわ。ですから、ええっと……そうですわ、商店街によってからそちらに行きましょう」
目を輝かせて熱弁するルーン。……よっぽど行きたいんだな、そのフリウデパートとやらに。まあ、新聞の折込チラシはオレも見たけど。……なんだっけ? 一部の商品を除いて二〇〜五〇パーセントオフ? これって閉店セールの時の数字じゃないのか? こんなのでこれからやっていけるのか? このフリウデパートは。まあ、新参者のデパートが開店セールのせいで潰れようが潰れまいが、オレには関係の無いことだけど。
「でも、何で商店街?」
「だって、ちょうど中央街への通り道にあるんですもの。どうせなら通ったほうが楽しそうじゃありません? 静かな住宅街を行くよりも」
「うむ。それは確かに」
「じゃああたしも行く!」
うわ。お前いきなり出てくるなよ。そりゃあ二人してこの世からまるで消し去ったかのように無視はしてたけどさあ。
いきなり飛び入り参加してきたエルに、ルーンがしらっと冷たい視線を送る。
「なんですの? いきなり」
「あたしも商店街まで一緒に行くって言ってるの。ちょうど買う物あったし」
「え、マジ?」
思わず本音がポロリと出る。いや、別にこれはエルがついてくることに対してじゃなくて、その……買う物っていうのがなぜだかこう神経にびびびっときて。
でもやっぱり、エルはオレの反応を前者と見たようだった。
「何よ。あたしが一緒じゃ悪いわけ? この援交親父」
「何だと!?」
「何よ。実際お金もらってるじゃない。立派な援交よ、エンコー」
「でも親父はねえだろ」
「じゃあ小坊主」
小坊主……。またなんか微妙なとこいったなあ、こいつ。
オレは今のことを頭の中から消すように(結構ショックだったんだよ)空を仰いだ。そこには青い空と白い雲とまぶしく輝く太陽がある。その太陽はもう、真上を少し過ぎている。そろそろ出発しないと、まずいかな?
「まあ、お前がついてくるとかこないとかはどうでもいいからさ。そろそろ行こう。でないとこのままここにいると日が暮れる」
「はい、ダルム様♥」
「え、何? それってあたしがうるさいってこと?」
「ねーダルムー。これ買ってー」
「何でだ。どうしてオレがお前にものを買ってやらなきゃならんのだ」
目の前の本屋から持ってきた本を片手に(なんだか本屋の奥から鋭い視線を感じるんだが……)擦り寄ってくるエルを押しのけながらオレはうんざりして言う。
「いーじゃない。買ってよー」
「だーめ。大体なんなんだ? その『超簡単! 誰でもできる黒魔術応用編』っていうのは。誰か呪い殺したいやつでもいるのか?」
「いや、なんとなく面白そうだなーと思って。だってだって凄いのよ! この本基礎編と基本編と応用編の三編からなってるんだけど、一冊六〇〇クエルのところが三冊セットだとこの本の著者マジカル・マジックさんの描いた神聖な魔法陣もついて一五〇〇クエルなの! 何で三冊組みのほうが安くなってるのかとっても不思議なところなんだけど、それは三冊もセットにされても誰も買ってくれなくって困ってるってことなのかしらってあたしは思うわけ。っていうかあたしとしては、基礎編と基本編なんて同じようなものなんだから一つにまとめちゃっていいと思うのよねー。以上」
「っていうかマジカル・マジックなんてすっごくうさんくさくないか? 絶対怪しいって、それ」
「そうかなあ? あ、そーだ」
「何だよ。以上じゃなかったのか?」
「この応用編にはついてないんだけど、基本編の巻末には付録として『私の試した黒魔術 ためになる体験談五〇』っていう読者の投稿ページがあって、そこに私は以前よりむかついていた人にこの本で学んだ黒魔術を試したところ、笑えるくらいポックリ逝ってくれましたって書いてあったわよ。だから、本当に効くのよこの黒魔術」
「笑えるくらいって何だよそれ!? 何かその本かなりやばくないか? そういうのを出版していいのか? 世間に出していいのか?」
「実際出てるからいいんじゃないの? ほら、あそこにポスターもあるし」
「ポスター?」
言われて、エルの指さした方向を見る。そこには壁に貼られた紙が数枚あった。それは白い紙に写真が貼っているもので、その下に黒と赤の文字で何か書かれている。
…………。
「おうあああっ!?」
「え、何? どうしたの?」
「お前、あれはどう見ても犯罪者の写真だろうが!」
「えー、そうかなあ? 今度『WANTED』っていう本を出しますっていうポスターじゃないの?」
「違う! どう見ても違う! 明らかに違うから!」
「でもー」
「でもじゃない! さっさとその本返してきなさい!」
「もー。うるさいお母さんだにゃー」
ぶつぶつと文句を言いながら(誰がお母さんだ、誰が)エルは本屋に入っていく。そうそう、それでいい。ちゃんとあった場所に返してくるんだぞ。……っていうかこの本屋、何でそんなお尋ね者の本をいまだに置いてるんだ? 普通ああいうのってすぐに処分するよなあ。
「ダルム様ぁー」
「ん、どーした? ルーン」
少し遠い所から声がして、オレはそっちへ振り向いた。二つ向こうの店の正面にいくつかテーブルがあって、その上にはいくつもの大きさの違った箱と一枚の封筒がある。そしてその隣には、一つの箱があった。その前に立って、ルーンはオレに向かって手を振っている。
「くじ引きですわ、ダルム様。くじ引きー」
今までにないほど目を輝かせて言うルーン。そんなに言わなくても見ればわかるって。くじ引きぐらい。
エルはほうっておいても別に大丈夫だろうと判断して、オレはルーンのほうに行く。ルーンはその輝いた目でじっとオレを見つめて、言った。
「くじ引き……やってみたいですわー♥」
「うーん。でもなあ……」
ルーンがこう言うだろうことはわかっていたものの、実際困った。ここでくじ引きをするには、五〇〇クエル分買い物して一枚もらえるくじ引き券が十枚必要だ。オレはいつもここで買い物をするから、とりあえず券は持っている。でも八枚しかない。そりゃあそこらの主婦の方々なら家族四人分なり六人分なりの買い物をするからそれなりに券は集まってくじ引きが何回かできたりするんだろうけど、あいにくオレは一人暮らし。そんなに券が集まるわけがない。かといって、今から一〇〇〇クエル分も買い物をするのもなあ。
「券なら、あたし三枚持ってるけど?」
「いたのかエル」
「何よ。いちゃいけないわけ?」
いや別にそういうわけではないんだけれども。
エルがその三枚の券をどこからか取り出して、オレの目の前でひらひらと揺らす。まったく、嫌味なやつめ。
「ほしい? ほしいならあげてもいいけど?」
「ルーン。こんなやつの施しを受けてまでくじを引きたいか?」
とりあえず聞いてみる。するとルーンは眉を寄せて少し困ったように言った。
「それは……ちょっと嫌ですわね」
「そうか。じゃあやめるか」
「で、でもあのガラガラってやるやつ、やってみたいですわっ!」
泣きそうな目でオレを見ながら言うルーン。おい、そんなに嫌なのか? エルの券を使ってくじを引くのが。それとも、オレにここで買い物をして足りない券を稼いでこいって言ってるのか?
「じゃあ、エルに券もらうぞ。いいな?」
「……仕方がないですわね」
「あー、何その言い方。なんかむかつくわねー」
そんなことを言いつつ、オレに券をくれるエル。なんだかんだ言いながら、お姉さんなところちゃんとあるじゃないの。
オレがエルの手から券を二枚だけ取ると、エルはきょとんとして言った。
「え、三枚ともいらないの?」
「ああ。オレ、八枚持ってたから。これでちょうど十枚」
「うっわー。微妙に一枚だけ残してくれちゃったわねー。どうせなら三枚とも取って今度買い物した時もらった分に付け足しちゃえばいいのに」
お前はするのか、そういうことを。いくらなんでもオレはそこまで汚くないぞ。汚れてないぞ。
オレはポケットから八枚の券を取り出すと、エルにもらった分と合わせてルーンに手渡した。
「ほら、これで一回引けるぞ」
「わあ。ありがとうございます、ダルム様。それとエルさん」
「うわ。このガキ何だかあたしをおまけみたいに言ったわよ、今」
実際おまけ的な存在なんだろうよ、ルーンにとっては。だから気にするな。気にしたところでどうにもならないからさ。
「ほら、くじ引いておいで」
「はーい♥ おじ様、一回お願いしますわ」
「あいよ、一回だね。じゃあそれを回してくれるかい?」
「これですのね」
心底嬉しそうに箱を回すルーン。まあ確かに、オレもあれをはじめて回した時は嬉しかったな。はずれしか出したことないけど。
ガラガラガラ……コロン。
「…………」
え、どうしたんだ? 皆黙ったりして。玉の色は……金色? 金って、何等だ? はずれか? それとも……
「大当たりーっ!!」
カランカランカランッ。
おじさんが叫びながら、手に持ったハンドベルみたいなのを振り回す。
大当たり……?
「出ました特賞、イン温泉二泊三日の旅ーっ!」
ほ……本当なのか? 本当に当たったのか? 当てちゃったのか?
……凄いぞルーン!
「ど、どうしましょうダルム様。わたくし当ててしまいましたわ。こんなことは初めてなので、どうしたらいいのか……」
急におろおろしだすルーン。何だよお前、こういうときは素直に喜べよ。オレなんて今まで当てた中での最高がはずれの次の四等だったから、特賞なんて当てたらその場で踊りだすかもしれないぞ。
「あ……ああ……」
エルがオレの隣で震えている。何かもう信じられないって感じの顔だ。なんて言ったらいいのかな? 青ざめてて、キャーって感じで……あ、そう。何とかの叫びっていう、あの感じに似てる。うん、まさにそれだ。
「どうしましょうどうしましょう、ダルム様ー」
「いや、どうしましょうとか言われてもな」
一枚の何かあんまり中身が入ってなさそうな封筒を手に、ルーンが泣きついてくる。
オレはとりあえずその封筒をルーンの手から取ると、封を切って中に入っていた一枚の紙切れを取り出した。どうやらこれが、そのイン温泉の宿泊券らしい。そこには色んなことが書いていて、インにある温泉宿ならどこにでも泊まれるとか、期限が来年の冬いっぱい(気長だなあ、おい)だとか、この券一枚で四人まで泊まれるとか……。
「お、これ一枚で四人まで泊まれるんだ。だったら誰かと一緒に行けばいいんじゃねえの?」
「本当ですわ。四人泊まれるって書いてます」
「それ本当!?」
急に会話に割って入ってくるエル。まあ、予想はついたけど。だってこの宿泊券の元になってるくじ引き券の五分の一はエルの券だし。でもこれは、ルーンのくじ運の強さ(まぐれかもしれないけど)があったからなんだろうけど。
「もちろん、あたしを誘ってくれるわよねえ。ルーン?」
「はい、それはもちろん。だってこの特賞の五分の一はエルさんのものですもの」
ルーンのやつ、何だか凄くものわかりがいいなあ。それとも、単に素直すぎるだけか?
「ですから、わたくしとエルさんとダルム様の三人で来年の冬にでも行きましょう?」
「え、オレも?」
「あら、駄目ですの?」
「いいじゃないのダルム。行こうよ温泉」
「……まあ、別にいいけど」
でも、女二人に男一人っていうのはなあ。何にも知らないやつが見れば限りなく羨ましい状況かもしれないが、メンバーがこの二人となると、必ず厄介なことになる。かといって残りのあと一人にあいつを連れて行くとしても、たぶん厄介ごとが増えるだけだ。結局、オレが一人でどうにかして治めないといけないわけか。
「あ、じゃああたしもう帰るからさっさとデパート行ってきなよ。行くんでしょ?」
「ああ、そうだったな」
「じゃあそろそろ行きましょう? では、エルさんまた今度」
「うん。じゃ、またね」
エルが手を振ってここを離れていく。これでやっと厄介ごとの要素が一ついなくなったわけだ。でも、
「ささ、ダルム様行きましょう」
「そだな」
ここに世界で一、二を争う厄介ごとの要素が、まだ残ってる。
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Photo by Natuyumeiro