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   九章 現在いま -solkf- U


「な……!?」
 何が起こったのかと……その問いは、トレドに対してのものか、それとも自分自身に対してのものか、正直ソルフ自身もわかってはいなかったのだが、ともかくそれは、言葉にする前に消えた。
 浮遊感の次に来たのは、急激な落下の感覚だった。
「イヤアアアアアッ!!」
 すぐ後ろから、リオの叫び声。彼女も自分と同じ体験をしているのか。
 だが数秒もしないうちに、その落下感も消えた。
「……!」
 ダン……っという重い音が、壁に反響してか、思ったよりも大きく響く。
 上手く着地は出来たものの、やはり足への衝撃は避けられるものではなかった。ビリビリと、電撃のようなものが走る。……折れては、いないようだったが。
 落ちたのは、十五メートルほどか。
 上を見上げると、ぱっくりと天井――元は床だったのだが――が口を開けているのがわかる。あのランプの明かりが漏れてくるのか、そこは微かに明るい。
 手を伸ばすと、数歩も歩かないうちに何かに触れた。冷たい、コンクリートの感触。手をそのまま上下左右に動かすが、変化と言えるものは何もなかった。
 おそらく、壁か。
 だが手から伝わってくる感触を鵜呑みにすれば、それは少しの凹凸もなく、磨かれたようにまっ平らで……、
「登るのは無理ね、これは」
 すぐ後ろで、冷静な声。
 振り向くと、そこには何事もなかったかのように立っている人影がある。
 その背丈からしても、先の声からしても、そこにいるのはリオの筈だった。
 だが、何故彼女が平然とそこに立っているのか?
 彼女も、自分と同じようにあそこから――あの天井の穴から、落下してきた筈である。その証拠に、落ちている間は常に――着地した時は流石に声を殺したようではあったが――後ろで彼女の悲鳴が聞こえていた。
 自分が着地に成功するのは納得がいく。
 記憶を失う以前、自分がどんな生活をしていたかは知らない。ただ、今までも何度か高いところから落ちたことはあったし、だがその都度体が勝手に反応し、気づけば自分は無傷で地面に降りていることが常だった。
 だがリオは?
 彼女は見るからに華奢で、こんなコンクリートの塊に全身を叩きつけられても平気な顔をして立っていられるような、そんな非常識な人間――それはもうすでに人間ではないのかもしれないが――には見えない。
 だがだからと言って、彼女が自分のように衝撃を最小限に抑えて着地できるような、普通ではない人間にも見えない。
 とりあえずソルフは、リオに声をかけた。その言葉に、何か意味があったのかはわからないが。
「……大丈夫か?」
 その言葉で、ようやくソルフがこちらを見ていることに気が付いたのか、リオは自分たちの落ちてきた穴からソルフへと、視線を落とした。
 リオが、ずっと上を向いていたために痛めたのか、首を手でさすりながら言う。身長差のため、それほど首の角度が変わったわけでもないのだが。
「心配してくれるの?」
 微笑を含んだその声にソルフは安堵し、同時に彼女への疑問が一層強まった。
「あんた、何者なんだ?」
 思わず、それが口から滑り出る。
 おそらく今の自分は、眉間に皺でも寄せて心底不思議そうな顔をしているのだろうが、幸か不幸か、ここには明かりがなく、上からの光もここまでは届いていないため、お互いの表情はわからない。
 ただ気配とその声音で、リオがその事実を隠そうとしていることだけはわかった。
「前にも言ったでしょう? 普通じゃないOLだって」
「答えになってるのか、それ」
 リオの気配からわかりきったことではあったのだが、それでもやはり期待はしていたのか、ソルフが嘆息混じりに、半ば呆れた調子で言う。
 リオはそれに対してか、苦笑を漏らしながら言う。
「まあ、仕事柄、ね」
 刹那。
 視界が、ゆらりと揺れる。
 ……否。実際には、揺れてなどいなかった。
 天井付近を微かに照らしていただけの筈の光が、こちらまでその手を伸ばし、ぼんやりとではあるが、視界を明るくする。
 ソルフとリオが反射的に顔を上げるのと、上から声が降ってきたのとは、ほぼ同時だった。
「二人とも、ちゃんと生きてるか?」
 声からして、間違いなくトレドであろう。だが、急に彼の持つランプの光を直視したためか、あまりよく見えない。
 わかったのは、彼が笑っていることくらいである。
「お。嬢ちゃんも無傷か。流石情報屋」
「情報屋?」
 ソルフが聞くが、リオは答えない。ただトレドをじっと見つめ……と言うよりも睨んでいる。
 今のリオには何をしても取り合ってもらえないと判断したのか、ソルフは視線をリオからトレドへと戻すと、いつもの――つまるところ緊張感など微塵も感じさせない――声で言った。
「なあ、ここから出してくれない?」
「お前が連れて帰られてくれるなら」
「ヤダ」
「だろ?」
 会話開始から五秒もしないうちに交渉決裂。わかりきったことではあったのだが、それでも不満なのか、ソルフが眉をしかめる。
 ソルフの困る顔が面白かったのかは知らないが、トレドはニヤリと口元を吊り上げると、言った。
「だから、武力行使♪」
「……?」
 ソルフはその言葉の意味がわからずに、眉間の皺をさらに増やす。どうしてわざわざ、自分たちをこんなところに落としたのか……?
 そんなこちらの疑問は全く気にすることなく、トレドは何か思い出したように小さく一言呟くと、一度穴から身を引いた。同時にランプも移動し、再びこちらは闇で満たされる。
 数秒して、再びランプの光が差し込んできた。
「嬢ちゃん」
 トレドの言葉が終わるよりも早いか、何かがこちらに向かって落ちてきた。
 黒い塊。
 逆光の為、どんな物が落ちてこようが黒い物にしか見えないだろうが、それは確かに黒い物だった。
 リオはすぐにその正体を察したのか、慌てて手を伸ばす。
「っ!」
 息を呑み、リオは抱きとめたそれに目を下ろした。
「銃?」
 ソルフが、それを見て声を漏らす。同時に、思い出した。買い物の帰りに立ち寄った喫茶店の地下室で、リオがこれと同じものを受け取っていた。
 リオは銃を手に取り、どこも損傷がないことを確認すると、一つ安堵のため息を漏らし、キッとトレドに向き直った。
「危ないじゃないのよ!」
「あー。悪い。でも大丈夫だろ?」
 全く悪びれた様子もなく、トレドが言う。
「嬢ちゃんに危害を加える気はねえが、まああれだ。自分の身は自分で守らないとな」
「……は?」
 我ながら間抜けな声を出してしまったとは思ったが、もう遅い。
 トレドは再び、ニヤリと笑って言った。
「連中きっと、そこまで余裕無いから」
「…………」
 リオの頭の中をトレドの言葉が駆け巡る。リオがその言葉の意味を理解したのは、きっかり三秒ほど後だった。
「それって、私も危険だってことじゃない!!」
「そゆこと。じゃ、オレたち下で待ってるから。連中に連れて行かれるか、オレに連れて行かれるか……ま、好きな方選んでちょうだい」
 別れの合図か、激励か……トレドはひらひらと手を振ると、穴から身を引いた。ランプの明かりも同様に移動する。
 ぎ……。
 鈍い音がし、同時、穴が狭くなっていく。
 ばたん、という音とともに、完全に穴が消えた。微かにあった光もなくなり、辺りは完全な闇となる。
「……閉じ込められた」
「そんなこと、見ればわかるわよ!」
 巻き込まれたことに相当腹を立てているのか、リオの返答は荒々しい。
 ぶつぶつと独り言を呟くように――だがその口調には刺があり、確実にソルフを攻めているように思える――リオが続ける。
「でもあいつ、下で待ってるとか言ってたわよね? ってことは、何処かに上に繋がる階段でもあるってこと?」
「だろうな」
 だがそんなリオの様子も全く気にしていない調子で、ソルフが答える。同時、カツ、というあまり似合わない小さな靴音を立てて、ソルフの気配がリオから遠ざかりはじめた。リオもすぐにそれに続いて、歩き出す。
 壁に手をついたまま、だが迷うことなくその歩を進めながら、ソルフが言う。
「……でも何で、ただの廃倉庫にこんなのがあるんだ?」
 こんなのとは、言わずもがなこの地下のことだろう。リオもそのことを理解してか、ソルフに言葉を返す。
「その質問に答える前に、一ついい? ここは何処?」
 ソルフは少し間を置いてから、
「……あの町からは、そう離れてない。つーか、地図上じゃあまだあの町の中なんじゃないのか?」
 それを片手を顎に当てながら聞いて……リオは小さく頷くと、ふっと口元に笑みを浮かべて言った。
「町外れの廃倉庫、か……なるほどね」
(あながち、予想外れでもなかったわけか)
 胸中で付け足す。
 ソルフはリオの言うことの意味がわからずに、眉をしかめた。振り向くことはせずに、聞く。
「何が『なるほどね』?」
「この辺りには昔、捕虜とか重犯罪者とか……ともかくそういう罪人を入れておくための牢があったのよ。地下に、ね」
 最後のところを強調して、リオが言う。
「じゃあ、ここが?」
 ソルフの反応に満足したのか、リオの語りは続く。
「そういうことになるんでしょうね。中でどんなことが行われているかわからないから危険だっていって……『平和保守条約』締結後、世界各地にあったこういう形の牢は全て埋められたって聞いてたけど……まさか、まだ残ってるところがあったなんてね」
「ふーん」
 後半はソルフにとってはっきり言ってどうでもよかったのだが……とりあえず、相づちだけは打っておく。
(……?)
 ソルフが眉をしかめ、立ち止まった。
 壁を伝っていた筈の手から、その感触が消える。変わりに現れたのは、鉄の棒の感触だった。ここが牢だというのは確かなのだろう。
 だが、それだけではない。それだけなら、足を止める理由にはならない。
 全身に突き刺さる、矢のような殺気……。
 どんっ。
「ちょっと、何急に止まってるのよ!」
 ぶつかったらしい。リオが怒鳴りつけてくる。
「……?」
 だがすぐに、その場の異変には気が付いたようだった。殺気は全てソルフだけに注がれているが、その余波でも感じたのか、リオは身をこわばらせ、反射的にスーツの裏――そこに例の銃があるのだろう――に手を突っ込んだ。
 ようやく闇に慣れてきた目で、辺りを見回す。
 苦笑して、リオが言った。
「二十人弱、ってとこ?」
「……だな。他にまだ、いるかもしれないが……」
 ソルフが、牢の鉄格子から手を離した。左手に持っていた槍を、右手に持ち返る。
「じゃあ、あんたはそっち、私はこっちで」
 先程よりいくらか緊張した声音で、リオが言う。
 それに対し、ソルフはいたって変わりはなかった。
「あんたに背中任せて、大丈夫なの?」
 それはソルフなりの激励か、それともただの皮肉なのかはわからなかったが。
「見くびらないで」
 ニヤリと、リオが口の端を吊り上げた。
 刹那。
 二人を取り囲むようにして立っていた傭兵――だろう、おそらく――たちが一気に間合いを狭めてきた。
 リオが銃を抜き、それらを両手に一丁ずつ持ち、構える。
(……何だ?)
 眉をひそめる……と言うよりは、ソルフは目を見開いた。
 背中越しにちらりとリオの姿を見たソルフの脳裏に、一瞬、何かがよぎり、それがリオの背中と重なる。
(あんたは、誰だ……?)
 一度瞬きをすると、その姿は消えていた。そこにいるのは、リオだけだ。
 自分よりもほんの少し背の低い、長い銀髪の人間の姿は、もうそこにはなかった。




「…………」
 彼女は唯一の灯りであるランプを右手に持ったまま、無言でその歩を進める。
 階段を三段ほど挟んで後ろには、ほんの数日前に相棒になった男がいた。
 名はトレド。ファミリーネームは、傭兵になった時に捨てたらしい……噂では、そう聞いている。本人に直接聞いたことはない。
 プライベートなことに触れる気は、彼女にはさらさらなかった。
 トレドとは、ただ仕事を遂行するためのペアでしかない。
 まして、恋人などでは。
 そもそも彼女は、何故彼が自分を相棒に選んだのかがわからなかった。それほど仲が良かったわけでもない。一、二度、トレドが話しかけてきたことはあった気もするが。
 だがそんなことは、今彼女にとってはどうでも良かった。
 仕事中である。余計なことを考える必要はない。
「…………」
 無言のまま、ピクリと眉が動いた。
 干渉しても、得にはならない――むしろ喋る分エネルギーを消費してしまうから、それは損であるのかもしれない……そう考えて、無視してきた。
 が、もはや我慢の限界か。
 後ろから流れてくる如何ともしがたい気配に、彼女は足を止めた。
 アルヴィカが振り返る。
「何をしているの?」
 その言葉で、ようやくアルヴィカがこちらを向いていることに気が付いたのか、トレドが足を止めた。ぶつかる寸前である。
 トレドはその口元に浮かべた笑みを崩さないまま、顔を上げた。その手には、それほど大きくもない、なにやら機械らしきものが握られている。
「観察♪」
「つまるところ、覗き見ね。悪趣味だわ」
 軽く軽蔑にも似た視線を送り、アルヴィカはふい、と進行方向へ向き直った。再び、歩き出す。
 トレドは置いていかれないように――と言うよりむしろアルヴィカに無視されないように、先程よりいくらか早くなった彼女の歩調に合わせて、歩き出す。
「んな連れねえこと言うなよ。……隠しカメラ、仕掛けるの大変だったんだぞ?」
「暇人」
「…………」
 即答するアルヴィカに、トレドは小さくため息をつく。
 仕方なく再び視線を機械へと戻すと、そこに映し出された二人は歩みを止めていた。その周りに、何人か傭兵の影も見える。
(始まるか)
 二人は何か言っているようだったが、それはこちらには聞こえなかった。カメラに音声機能は付けていない。必要もない。ただソルフの――アカツキの生死が確認出来ればそれでいい。
「……っ!?」
 トレドが、息を呑んだ。思わず足も止まる。
 アルヴィカは彼の変化などさほど気にしていないのか、構わず歩を進めている。
 灯りが遠ざかる……が、そんなことはトレドにはどうでもいいことだった。闇の中に、彼の手が持つ機械の画面だけが淡い光を発している。すでに戦闘は始まっていた。
 彼はそれを見ながら――だが見ているのは、その現在の光景ではなかった。
 一瞬前。リオがその手に、銃を構えた一瞬。
 まるでそれが静止画であったかのように、トレドの脳裏に焼きつく。
 その一瞬、彼が見ていたのはリオではなかった。
 彼女に重なるようにして、見知った、だがもういない男の姿……。
「ティレニア……?」
 信じられない、という面持ちで、トレドはその名を呟いた。




 その部屋は、無駄に広かった。
 少なくとも彼は――トレドは、その部屋に入った瞬間そう思った。
 もとは、大勢の客人でも呼んでパーティをするための部屋なのだろう。その天井には数個の大きなシャンデリアも見受けられる。
 だが今は、そのどれにも――まして壁に備え付けられている燭台にすら、灯りはともされていない。
 今唯一明かりとして頼りに出来るのは、天井近くにある明かり取りの窓からの月光であったが、雲でもかかっているのか、そこからは一筋の光も差し込んではこない。
 故に、辺りは完全な闇である。
 それ自体は、それほど気にすることでもなかった。目はすでに闇に慣れている。
 問題は、
「五人、か」
 トレドと背中を合わせるようにして立った状態で、男が呟く。
 ストレートの銀髪を腰まで伸ばした、トレドと同じく黒装束にその身を包んだ長身の男。
 彼はトレドの、臨時の相棒だった。組むのは今回が初めてである。
(他ギルドの傭兵……じゃないな。専属の護り屋か)
 男が、今度は口には出さずに、胸中で呟く。
 彼らを取り囲むようにして立っているのは、五人の男たちだった。身長はどれも軽く二メートルはありそうで、体重は、自分たちの倍はあるのではないかとも思える。手にはそれぞれ銀色に光る凶器のようなものを持っていたが、実際それにはあまり意味がないように彼には思えた。注意すべきは鍛え上げられた彼らの筋肉の方……そう思う。
「……悪い」
 背後で、トレドが心底ばつが悪そうに言う。
「謝るなよ」
 男は小さく笑って言い、両の手を腰に回した。交差するように吊ってある二本の短刀の、その柄に触れる。
 瞬間、男の気配が変わった。
 確かに笑っていた柔らかいその男の気配が、ピリ、と張り詰めたものに変わる。
「こうなったら、もう戦(や)るしかないだろう?」
 男のその言葉を合図にしてか、護り屋たちが一斉に飛び掛ってきた。




 昼下がりの公園は、人で賑わっていた。
 フォルド公国北西端にある傭兵の町、フェンサリル。その中心からさほど離れていない場所の公園――その広場にあるベンチに、二人の男が座っていた。
 一人はベンチに背を預け、ただずっと空を見上げている。
 もう一人は微笑など浮かべながら、足元に寄ってきたハトたちに餌をやっている。
 遠目から見ればそれは、人生に疲れた男と、老後の生活を満喫している老人に見えたかもしれない。……いや、もしかしたら実際に、人生には疲れているのかもしれないが。
「なあ」
 空を見上げたまま、短い黒髪の男――トレドが言う。
「本当に、オレなんかでいいのか?」
「何が?」
 もう一人の長い銀髪の男――ティレニアは、ハトが餌をつつくのを眺めながら、だがトレドの方を見ることはせずに言った。
 トレドはそれが気になったのか、視線を空からティレニアへと転じる。
「ペアのことだ。オレじゃなかったら、今回、こんなことには……」
 見れば、二人ともボロボロだった。いたるところに絆創膏やガーゼが押し当てられ、包帯の巻かれている箇所もある。それほど重症と思われるものは見当たらないが、それでも相当気にしているのか、トレドの言葉は次第に弱まり、そして消えた。
 トレドの気を察してか、ティレニアが身を起こし、包帯の巻かれた右腕を見せながら、笑って言う。
「ああ。これのことなら気にするなよ。大した怪我じゃない。医者はいつも大袈裟なんだ」
「……だが」
 自分のせいだという意識が強いのか、トレドは声を落としたままぼそりと呟く。
 ティレニアは、小さく苦笑した。背を預け、広場を走り回っている子供たちを見ながら、言う。
「たまには、ああいうのもいいんじゃないか? 二人とも、どっか折ったとか、まして死んだわけじゃあるまいし」
「そりゃあ、そうかもしれないが」
「だいたいアカツキは、今一人で仕事中だ。お前の相棒は――全治四ヶ月だっけ?――、まだ復活できないんだろ? でもお互い稼ぎはいる。ならいいじゃないか」
「…………」
 ティレニアの言っていることは、確かに正論だった。相棒の怪我が治るまで、稼ぎがないというのは確かにつらい。だからと言って、そうそう手頃なバイトがあるわけでもない。
 トレドはしばらく間を置いて、だがそれでも躊躇うように、口を開いた。
「……アカツキは……あいつは、どうして今、一人で仕事をしてるんだ? こんなことは、今まで例がない」
 それはおそらく、トレドだけが聞きたかったことではないだろう。〈スルーズ〉に所属している傭兵は皆、少なからずその疑問を持っている。
 その答えを、アカツキの相棒であるティレニアなら知っていると思ったのだろう。
 ……だが、返ってきた答えは期待したものとは違っていた。
 ティレニアは、微笑を浮かべたまま言う。
「さあな。ライラット公の考えていることは、オレにはわからん。ただ」
「?」
 ティレニアの意味深な言葉に、トレドは眉を寄せた。ティレニアは相変わらず走り回る子供を見ていて、こちらを見ようとはしない。
 それは、どう言ったらいいのかわからなかった。……いや、ただの憶測でそういうことを言ってしまっていいものかわからなかった。
 言葉を選ぶように数秒間沈黙すると、ティレニアはゆっくりと口を開いた。
「ただ、オレには……何かの準備をさせているように見える。あいつが一人でも、生きていけるように……な」
「…………」
 トレドには、その言葉の意味がわからなかった。
 少なくとも、その時は。
 彼がようやくその意味を理解し、ティレニアの言葉がある意味的を得ていたことがわかったのは、それからちょうど二年と半年後のことだった。


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