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   六章 偽りの大罪 -the innocence- W


 一体、どのくらい走ったのか。
 はっきりとはわからない。
 ただ、一度も休んでいない。それだけは確かだった。
 これで方向を間違えていたなどと言ったら笑い話にもならないが、今のアカツキにはそのような考えは浮かばなかった。
 いや、そのようなことを心配する余裕がなかった。
(ライラット公……!)
 彼の頭には、今はそれしかない。
 ライラット・フォン・スルーズ。
 内乱で家族を亡くし、行く当てもなく、ただそこで野たれ死のうとしていた自分を救ってくれた存在。
 自分を実の子供のように育て、生きる術を教えてくれた存在。
 自分をティレニアや、他の仲間に出会わせてくれた存在。
 ……彼は、アカツキの全てだった。
 だがだからと言って、その恩を返すことが出来るなどとは、アカツキは思っていなかった。
 それほどに安いものではない。彼が与えてくれたものは。
 ……だからこそ。
(オレが……)
 死なせない。決して、不本意な死に方はさせない。
 もう何度目になるかわからないその言葉をもう一度胸中で呟き、アカツキはただ走り続けた。
 珍しく息が上がっている。だが、ここで足を止めるわけにはいかなかった。
 日はすでに昇り、その深い森の向こうには、フェンサリルの町を囲む白い石造りの壁が、微かに見えた。




「く……っ!」
 吐き捨てるように短くそう言い、大きく剣を振りかぶってきた傭兵の一人の胸に短刀を叩き込んだのは、その長い銀髪の大半を返り血で赤く染めたティレニアである。
 アカツキが去り、第二陣との戦闘に突入してからおよそ五分。ティレニアを取り囲む傭兵は、残り五人にまで数を減らしていた。
 だがこの状況は、ティレニアにとって必ずしも有利とは言えなかった。
 確かに、ティレニアと彼らとの間には天と地ほどの戦闘能力、技術の差がある。
 だがそれは、両者が共に万全の状態であれば、の話だ。
 今やティレニアの疲労は、ほぼ頂点に達していた。
 だからと言って彼らとの力の差が完全に無くなるわけではないのだが、戦闘を開始した頃よりも状況が厳しくなっていることは間違いない。
(あと五人……)
 ティレニアは傭兵の胸から短刀を抜くと構え直し、残りの傭兵たちと自分との距離を目測した。
 歩幅にして十歩前後、というところか。ティレニアを中心としたその位置に、五人が囲むように立っている。その内四人の手には剣が握られていて、一人は柄の先端に鎖の付いたナイフを二本――まだどこかに隠し持っていそうな感じもするが――持っている。
 対して、ティレニアの武器は今その両手に握られている短刀二本のみ。
 あまりにも間合いに差がありすぎる。
(……まあ、『ノルン』と殺り合うよりは幾分ましか)
 相棒の持つ巨大な槍を思い出し、ティレニアは微苦笑を漏らした。
 おそらく自分が槍や長柄戦斧(ハルヴァード)などといった物と戦う破目になれば、かなりの苦戦を強いられるだろう。その使い手がアカツキやナセルなどといった自分と同等かそれ以上の実力の持ち主ならば、すでに勝敗は決まったも同然だ。実際、アカツキとティレニアがまだ小さい頃に行われていた模擬試合などでは、ティレニアがアカツキに勝ったことは一度もない。……いや、一度だけあったか。ただその時はアカツキが寝坊したためにティレニアが不戦勝になったのだが、ティレニアがその結果に不満を持ったため行われた再戦では、ティレニアはアカツキに触れることさえ出来ずに勝負がついた。
 まあ、二人の実力がその頃から平行に伸びているわけではないであろうが。
 ともかく今回の戦闘でティレニアが生き残るためには、それ相応のスピードが必要だった。
 これはあの頃の模擬試合とは違う。本物の戦闘。今までに何度も経験している。生きるか死ぬか、ただそれだけの。
(……まあ、何とかなりそうか)
 足は数箇所刺されてはいるものの、傷が思ったよりも浅かったのか、どうにか正常に――それでも幾分スピードは落ちるであろうが――動かすことが出来そうだった。
 手も、短刀を持ったまま何度か握り直す。多少右肩が痛みもしたが、これもまだ正常に動かせる範疇だった。
 自分はこの戦いに、生き残れる。
 そうティレニアは確信し、
 刹那。
 ……ヒュッ。
 小さな風だけを残し、そこからティレニアの姿が消えた。
 傭兵たちの目はそのティレニアを捉えることが出来なかったのか、困惑した様子で辺りを見回している。
 その内の一人が、
「ああああああっ!!」
 突如、悲鳴を上げる。それにびくりと一瞬体を痙攣させて、他の傭兵たちはその傭兵へと視線を移した。
 鎖の付いたナイフを持っていた傭兵である。
「あああ……あ……」
 十秒と経たない内にその悲鳴は力をなくし、途切れた。
 それと同時、ずるりと傭兵の上半身が下半身からずり落ちる。切り口からはこれでもかと言うほどの血が流れ落ち、そこにはすぐに赤い水溜りが出来た。
 残り四人。
「くっ。一体どこ……!?」
 かなり焦っているのか、額に冷や汗を浮かべて辺りを見回していた傭兵の言葉が、突然途切れた。そして今度は悲鳴すら上げずに、そのまま前に倒れる。
「そこか!」
 言って、傭兵の一人がたった今殺された傭兵の元へ剣を構え走って来る。だがそこに、ティレニアの姿はない。
 刹那。
「今のオレの動きすら追ってこれないんじゃあ、話にならないな」
 そう声が聞こえてきたのは、傭兵の、その耳元だった。
「な……っ!?」
 傭兵が驚愕の色をその緑色の双眸に宿し、振り向く。
 一瞬だけ、顔面に迫ったティレニアの、その金色の目と視線が合う。
 だが、ただそれだけだった。
 すぐにティレニアの姿は視界から消える。
 数秒して、傭兵は自分の体の異常に気が付いた。
「あ……?」
 体が、ぐらりと揺れる。同時、視界に変化が生じた。
 空を仰いでもいないのにその視界にはまだ暗い夜空が映り、そして急激な浮遊感に襲われる。次に視界に映ったのは、こちら側に落ちてくる、黒い外套に包まれた背中だった。
 誰かに言われずともわかる。それは、自分の背中だった。
 普段は自分の背中など注意深く見たりはしない――まして今は黒い外套に包まれている――のだが、それが自分のものだとわかったのは、あるものが欠けているからだった。
 首から上が、ない。
「がっ!」
 それを理解した瞬間、体から切り離された頭は後頭部から地面に激突し、さらに自らの体に押し潰された。がらんと大きな音をたてて、傭兵の持っていた剣が地に落ちる。
 残り、二人。
 お互いの距離が開いていることを不利と思ったのか、彼らは互いに目配せすると近くに寄り、背中を合わせるようにして立った。こうなると、迂闊には近づけない。
 が。
「そう思うのは気の小さい馬鹿か……もしくは、自分が相手よりも格下だと思っている奴だけだ」
 その声が聞こえたのはどこからか。
 少なくともそれに気づくのに、二人の間には微妙に差があった。
「がああああああっ!!」
 片方が悲鳴を上げる。もう片方は――いつの間に移動したのか――数歩分離れたところからその様子を見ていた。
 体が緊張に興奮する。
 汗が吹き出る。
 足が、動かない。
 さらに思考だけは彼自身が思いもしなかったほどの速さで回転し、あるものを彼に見せていた。
 ……もしあれが、自分だったなら。
 ぞくりと、背中を悪寒が走る。
 その目の前で、
「ああああ……」
 さっきまで自分と背を合わせて立っていた傭兵が地に崩れる。首と肩の付け根から、きれいに体を縦に二分されて。
 気づくのがほんの少し遅れていれば、自分もああなっていた。
 ……だがそれが、果たして幸運だったのか。
 自分が一人で彼に勝てるはずがない。仲間もいない。それならばあの時――彼が自分の上にいると気づいた時、逃げるなどという無駄なことをせずに、素直に殺されていれば良かったのではないか。そうすればこの心臓を握り潰されそうな緊張から、少しでも早く開放されたのではないのか。
 そのような思いが脳裏をよぎるが、今更どうにもならない。
 地面に倒れた暗い灰色の外套のすぐ傍に、黒い外套が蹲(うずくま)っていた。それが――ティレニアが立ち上がり、こちらを見る。
 その金色の双眸に、普段の感情の色は見えない。
 どちらかと言うとアカツキに近い、物憂げに見えなくもない瞳。
 暗い光を宿した眼。
 殺人者の瞳。
「う……」
 傭兵は一瞬気圧されたように呻いたが、それはすぐに雄叫びへと変じた。
「うおああああっ!!」
 剣を振り上げ、ティレニアに迫る。
 だが、恐怖のあまり錯乱しているのか、その動きには隙がありすぎた。
「…………」
 ティレニアは無言でそれをかわし、相手の懐に入り込む。
 右の短刀を一閃。傭兵の剣が、左手首諸共吹き飛ぶ。
 左の短刀を一閃。傭兵の上半身が宙を舞う。
(……これで、終わり)
 ティレニアが胸中で安堵の息を漏らす。
 刹那。
「アカツキを一人で逃がしたのは、正解だったな」
「……っ!?」
 背後から声。冷ややかな、嘲笑ったかのような。
(近づいてくる気配はなかった……!)
 ティレニアが瞬時に振り向く。
 ド……ッ。
 重く鈍い音と共に、体に感じる違和感。
 視線を下ろすと、そこには一本の剣があった。
 それは自分の胸から体内に入り込み、そして、背中から突き出している。
 それでも今自分が生きているのは、やはり、急所を外したからか。だが……。
 「ぐ……っ!」
 体の奥から咽喉を通り、血が込み上げる。もう、そう長くは持たない。
 剣を視線で辿ると、そこには一人の傭兵の姿があった。
 口元を布で隠しているが、ティレニアにとって、それはさして意味を持たなかった。
「……ウルミエ」
 口から血を垂れ流しながら、ティレニアが苦々しくその名を呟く。
 ウルミエはその黒い瞳に微かに歓喜の色を混ぜながら、ティレニアに言った。
「だが、もうすでに手遅れだ。ライラット公は」
「……っ!」
 ティレニアは短刀を振るうが、それはむなしく空を切った。代わりにティレニアの胸から、ウルミエの剣がこちらのことなどお構いなしの速度で引き抜かれる。
「が……っ!」
 ごぼりと血を吐きながら、ティレニアが地に膝をつく。
 ウルミエはそれを、五歩ほど離れたところから見下ろしていた。恍惚とした表情を、その目に宿して。
 ウルミエは剣を振り、その刀身に付いたティレニアの血をはらいながら言う。
「……お前がこちらの予想通りに動いてくれて助かった。これでヴァレンス様も、お喜びになる」
「な、に……?」
 ティレニアは問うが、ウルミエは聞いていないようだった。それ以外には何も言わずに、すぐにティレニアの視界から姿を消す。
 ティレニアに止めを刺す気は、ウルミエにはないようだった。……このまま放っていても結果は同じ、ということなのだろうが。
(予想、通り……?)
 ウルミエの言葉が、妙に頭に引っかかる。
 それは、自分がアカツキを一人で〈スルーズ〉に向かわせたことなのだろうか。
(……っ!!)
 靄のかかりはじめた意識の中で、ティレニアの頭を、あることがよぎる。
 ヴァレンスは長の座を狙っている。
 それは、すでに紛れもない周知の事実。
 だからこそ、今回のことは、それだけが目的だと思っていた。
 だが、違う。それだけではない。
 もう一つ。
 ヴァレンスは……。
(……くそっ)
 ティレニアは立ち上がろうとしたが、出来なかった。がくりと膝から地面に倒れ込む。足に力が入らない。いや、すでに体全体が大量の出血により麻痺を起こしつつある。
 それでも、行かなければならない。
 ティレニアは上手く動かない体をどうにか動かして、地面を這いずるようにして進んだ。
 少しずつ、少しずつ。ほんの一歩でも先へ。
 だがその跡には、赤い血がどろりと、帯のように線を引いている。
 何故か、とてつもなく長い時間が過ぎたような気がした。
(オレは……こんなところで、何をしている!?)
 ティレニアは胸中で叫ぶ。が、声には出ない。
 すでに意識は朦朧とし、視界はほとんど見えない。
 体がすでに動かなくなっていることすら、理解出来ていない。
 その中で、
「……アカ……ツキィっ!!」
 一番危険な場所へ一人で向かわせてしまった自らの浅はかさを憎みつつ、ティレニアは、その言葉だけを咽喉の奥から絞り出した。
 あの無愛想な、相棒の名を。




 そこは、異様なほどに静かだった。
 フェンサリル中央に位置する『多国籍傭兵ギルド〈スルーズ〉』という名の巨大な建物の内部には、いつもはあるはずの人の気配がほとんどしなかった。
 確かに人はいる。だが、ここにはいない。
 いつもならば、重そうな紙の束を抱えた管理職の人間たちが歩き回っていてもおかしくはない時間帯である。だがそんな彼らの姿は、今は一つも見つけることが出来ない。
 わざわざ裏口から忍び込むような真似をしなくても良かったかとも思ったが、すぐにそんな考えは頭の中から消えた。いくら裏がこうも機能していないように見えても、表はわからない。いつものように仕事を求め、たくさんの傭兵たちが来ているかもしれない。
 ……そしてその中に、自分の命を狙っている者が紛れているかもしれない。
 その可能性は十分にあった。……今ここにそれがいないと言うことも、完全に否定出来たものではないが。
 ともかく、用心に超したことはない。
 アカツキは息を潜め、周囲に細心の注意を払って進んだ。
 あえて気配は消さない。その方が不自然に思えることもある。
 向かうのは、〈スルーズ〉最奥部にあるギルド長ライラット・フォン・スルーズの自室だった。
 ライラットは普段、自室にいることはあまりない。そこにいるのは夜寝る時だけといった感じで、もっぱら公務室にこもっている。
 だからこそアカツキも、〈スルーズ〉に戻ればすぐにそこへ向かうつもりだった。
 だが実際戻ってみると、彼の気配は公務室からはしない。
 むしろ自室の方から彼の微かな気配と、普段ではあり得ないような数の人の気配がする。
 ……嫌な予感がした。
 だがアカツキはそれを肯定はしない。たとえ頼りになるのは自分の勘だけという世界に生きてはいても、認めたくないものは認めたくない。
(ライラット公……)
 ただ祈って、先へと進む。
 認めたくないがために祈る。が、
 自室へと近づくにつれ、アカツキの中で、焦燥感が膨れ上がる。
(……気配が……)
 初めは微かだが、ちゃんと感じ取ることの出来たライラットの気配。
 だが今はそれが、多くの他の人間たちの気配でかき消され、感じ取れなくなってきている。
 それが、意味するのは……。
 バンッ。
 周囲の様子も何も気にせず、アカツキは目の前に現れたその大きな両開きの木製の扉を顔に表すことの出来ない感情を変わりにぶつけるようにして思い切り開いた。
「アカツキ?」
「アカツキだ」
「何故だ? 彼は今仕事中(そと)では……」
「誰かが彼に伝えたのか?」
「いや、そんなことは……」
 案の定この部屋に集まっていた人間たち――ざっと四十人近くはいる――はいきなり大きな音をたてて扉を開け現れたアカツキに注目し、ざわめき始める。
 だがアカツキは、彼らのことなど眼中にもなかった。
 扉を開けたその格好のまま動くこともなく、ただその正面にあるものを見つめている。
 不必要だと思えるほどに広い部屋の中央奥に置かれた、一つの大きなベッド。
 そこにかけられた、白いシーツ。
 その膨らみ。
「……ライ……」
 渇いて張り付いた咽喉から、掠れた声が漏れる。
「父上は……ライラット・フォン・スルーズは、たった今、亡くなったよ」
 アカツキの意に答えるように落ち着いた声音で言ったのは、そのベッドに一番近いところに立っている一人の男だった。
 口元に髭を生やした、平均的な中年男性の体型をした男。
 ギルド長ライラットの実の息子、ヴァレンス・キル。
 ヴァレンスは全く動く様子を見せないアカツキに向かい、ゆっくりと語り始めた。
 それはまるで、毒でもすり込むかのように。
「残念……非常に残念だ。それは私だけではなく、君も含めたここにいる全員が感じていることだろう。父上は確かに齢七十を超えてはいたが、日々その身を公務に費やし、全く老いを感じさせることなどなかった。まさかこのような形で倒れられるなどとは、誰も思ってはいなかっただろう」
 ヴァレンスのその言葉に、部屋にいた数人が動揺し声を上げる。他の者たちは察しがついていたのか、あからさまに動揺することはなかった。ただそれでも、思っているだけなのと実際に言葉として言われるのとでは違うのか、その部屋全体の空気が震える。
 ヴァレンスは少し間をおくと、アカツキの目をまっすぐに見つめて言った。
「父上は、毒殺だ」
「……っ!」
 表情は変わらない。だが確かに、アカツキの赤い瞳は微かにだが震えた。
 想像がついていなかったわけではない。
 だが。
 だが……。
 動揺するアカツキを見て、ヴァレンスの暗い紫色の目が、ギラリと嫌な光を放つ。
「誠に遺憾なことだ。誰が、何故このようなことをしたのか? 私は今回のことは、徹底的に調べるつもりだ」
 ヴァレンスはそこで一度言葉を切った。周囲の動揺はもはや消え、部屋の空気は重苦しくはあるが、また元のような静かなものへと戻る。
「ところで、君はどうしてここにいるのだね? アカツキ」
「……!」
 ぴくりとアカツキが反応する。
 だが、それだけではなかった。
「何故……」
「何故だ?」
「何故彼が……」
 静まった湖面に再び小石を投げ入れたように、動揺が波紋となって広がる。
 一人が、震えた声で言った。
「……血だ」
 それがまた新たな小石となり、周囲は激しく波立ち始めた。
「何故あんなにも血塗れなのだ?」
「仕事を終えて帰ってくるには、早すぎる……」
「何故一人なのだ? 他の者はどうした!」
 人々は騒ぎ、アカツキに答えを求めようとする。だが、答えられるはずがない。確かな証拠がここにはない。その中で、
 ヴァレンスの口元がにやりと裂けたのを、アカツキは確かに見た。
 彼だけが、それを見た。
「まさか……まさか貴様が!」
 ヴァレンスがアカツキを指差し、声を荒げて言う。
「貴様は自らの仲間を殺し、父上までも殺したのか!?」
 アカツキにはそれが、ひどく芝居がかっているように見えた。
 だが他の人々の興奮しきった脳は、どうやらそれをまともに受け入れてしまったらしい。
「な……っ!?」
「その血は、まさか……仲間の!?」
 困惑と、恐怖と、憎悪と……。
 様々な感情が渦巻く中で、ヴァレンスは叫んだ。
 嬉々とした表情で。
「そいつは、裏切り者だあっ!!」
 刹那。部屋の奥からこちらへ飛び出してきた二つの影があった。おそらくはこの部屋に待機していた傭兵だろう。黒い外套から、するりと銀色の刃が覗く。
「…………」
 アカツキは無言のまま後退した。
 弁解しようなどという考えはない。そんなものは無駄だとわかっている。ヴァレンスの評判がそれほど良くないにしても、仮にも彼はライラットの実の息子であり、アカツキはただの一傭兵に過ぎない。どちらの発言に力があるかなどと問われたとしても、そんなものは答えるまでもなく一目瞭然である。
 圧倒的にアカツキが不利だ。
 不本意ではあるが、ここは逃げるしかない。
「…………」
 アカツキはまっすぐに伸びた廊下を、ただ走った。
 後ろに、急激に近づいてくる気配が二つ。例の傭兵か。
 だがそれほどに広くはない――それほど狭いとも言えないが――廊下では、思うように柄の長い『ノルン』を振り回すことは出来ない。
 アカツキは左手に持った『ノルン』を右手に持ち替えるように体をくるりと反転させ、そこで立ち止まった。
 正面に剣を持った傭兵が二人。その片方は上から斬りかかろうと、大きく天井ぎりぎりの高さでジャンプする。
 アカツキが姿勢を低くする。
 刹那。
「が……っ!」
 正面の傭兵が、アカツキの突き出した『ノルン』の柄をまともに鳩尾の辺りに食らって後方に吹き飛び、ライラットの自室の扉に思い切りぶつかった。そのまま動く様子はない。
 アカツキはそのまま、『ノルン』の柄を弧を描くように振り上げた。天井は、それなりの高さがある。
「ぐげっ!?」
 首を一撃されて、傭兵が妙な声を上げた。そしてそのまま半円を描いた『ノルン』の柄に、床に叩きつけられる。
「ご……っ!」
 傭兵はびくりと体を痙攣させたが、すぐに動かなくなる。
「…………」
 アカツキは二人の傭兵をちらりと見たが、すぐに立ち上がって駆け出した。
 躊躇している暇などない。すぐに他の傭兵が駆けつけて来ても、おかしくはない。
「奴を逃がすなあああっ!!」
 ガシャアアアンッ!
 ヴァレンスの声を背後に聞きながら、アカツキは、目の前にあった窓ガラスを割って外へと飛び出した。




 自分を陥れること。
 それが今回のことの本当の目的だったのだと、アカツキはフェンサリルの町を取り囲む森の中を走りながら考えていた。
 ……いや実際には、ギルド長の座を奪うことも確かな目的の一つではあるのだろうが。
 町からは、もうかなり離れていた。追っ手の気配もない。だが必ず追っ手は来ると、アカツキは確信していた。
(オレをあそこで殺そうと思えば出来たはずだ。だがこうして逃がしているのは、オレを罪人として追い掛け回したいからか……?)
 ふと頭の中に、ヴァレンスの嬉しそうな顔が思い出される。おそらくあれを見ていたのは自分だけだっただろう。他の者たちは皆、自分に注目していた。
 アカツキが眉をしかめる。
(生き地獄、か。……悪趣味な)
 胸中で吐き捨てるように毒づき、そのまま一定の速さで走る。森の中は走り易いとは言わなかったが、それほど走り難いわけでもなかった。仕事で何度も通ったことのある道である。慣れと言うものだろうか。
「…………」
 しばらく走ると、嗅覚がある臭いを捕らえた。
 仕事柄嗅ぎ慣れている、だが、決して好きにはなれない臭い。
 ……血の臭い。
 その場所は、昨日ティレニアと別れたところから、そう離れてはいなかった。
 さらに進むと、草の陰に、見覚えのある銀髪が横たわっている。
「…………」
 アカツキはただ無言で、そこまで行くと足を止めた。


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