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   五章 偽りの大罪 -the innocence- V


 野生動物は敏感である。
 自らの身に危険が及ぶであろうことを事前に察知し、そしてそれを回避すべく行動する。
 ……夜の森は、静かだった。
 縄張りを示すための獣の咆哮も、樹液に群れる虫たちの羽音も、何も聞こえない。
 そこには、彼らのいる気配すらない。
 本当にそこにいないのか、ただ気配を絶って身を隠しているのか……その区別は、つかなかったが。
「アカツキ」
 小さく空気を振動させたのは、一人の男だった。
 あまり動き回るのには好ましくないような、腰まである銀色の髪。端正な顔に付いているのは、二つの鋭い金色の目だった。
 いつもならば柔和な笑みを浮かべているのであるが、今の彼の顔には、それは微塵もない。
 ティレニアはちらりと、横目で隣に座ったまま寝ている――彼も同じ体勢であるのだが――相棒を見た。
「……起きてるか?」
「起きてる」
 相棒の――アカツキの声を聞いて、ティレニアは安堵の吐息を漏らした。胸中で。
(アカツキは、まだ生きている……)
 ぴくりと、無意識に体が反応する。伸びた手は、すでに腰の短刀の柄を握っている。
(……そして、オレも)
 ザッ。
「…………」
 無言。自分も、相手も。
 立ち上がり、振り向きざまに一閃。……手ごたえはあったように思えたのだが、距離が足りなかったか……。
 一瞬前まで誰かがいたのであろうその場所には、今は黒い空間だけが広がっている。
 闇が深い。今日は新月ではないはずだったが、雲でもかかっているのか……。
 刹那。
 ……ドッ。
 重い音がしてそちらへと視線を移すと、アカツキが『ノルン』を上へと突き上げたところだった。
 アカツキはゆっくりと立ち上がり、その場から一歩後退して、『ノルン』を引き抜く。
 ズ……。
 その長い柄の先端に付いているものは、銀に輝く刃であったはずなのだが。
「…………」
 アカツキは何も言わない。ただ、じっと見つめている。『ノルン』の、その先。
 ぼたりと、何かが地面に落ちた音がした。
 雲が風に流されたか、微かな月の光が木々の葉の間から差し込む。
 それに照らされたのは、赤黒い血の塊だった。
 そして『ノルン』の先端の金属は、それと同じ色に塗り替えられている。
「ぐ……はっ……!」
 咳き込み、咽喉の奥から絞り出すような嗚咽とともに、どさりと重たい音をたてて、木の上から何かが落ちる。
 それは、アカツキと同じように、黒い外套に身を包んだ男だった。
 皮の手袋に包まれた手が握っているのは一本の両刃の剣であり、その柄の先端部分には、見覚えのある紋章が掘り込まれている。
 盾の前で交わった、二本の剣。
「〈スルーズ〉……」
 ティレニアが小さく呟く。それを否定する者は、誰もいない。
 アカツキの『ノルン』にも、ティレニア自身の持つ二本の短刀にも、同じものが掘り込まれている。見間違うはずがない。
 アカツキが、自らの殺めた男の傍にしゃがみ込む。
 男は、もう事切れていた。
 仕事――主に暗殺だ――の際、正体を隠すためにつける黒い布。男の口から、アカツキはそれを剥ぎ取った。
「……リアス」
 小さく、その男の名を呟く。
 それは今回の仕事で、共に行動していた男だった。確かに以前から気が合っていたわけではないが、だからと言って、狙われる理由にはならない。まして、仕事の途中で。
(一体、何が……?)
 ティレニアが、胸中で呟く。
 何かが起こる、とは確かに予期していた。だがそれがこんなにも早く、そしてこんな形であるとは……。
「あ、あかん……」
 後ろから声がして、アカツキとティレニアは振り向いた。
 別に、それほど驚くことではなかった。だんだんこちらに近づいてくる気配もあったし、足音も聞こえていた。だが、
「何や、アカツキはん……。わてや。ナセルや……」
「そんなことはわかっている」
 見るからに血塗れでぼろぼろのナセルに、アカツキは冷たく言い放つ。
 ナセルは小さく笑ったが、それが精一杯のようだった。確かに目はいつものように笑っているが、その顔にいつもの陽気さがない。
「何や、わかってはるんか。……せやったらこれ、のけてくれへんかなあ?」
 そう言うナセルの顔の正面には、ぴたりと、『ノルン』の先端が突きつけられている。
 アカツキはナセルの左手に握られた巨大な――『ノルン』とそう長さは変わらないかもしれない――戦斧を一瞥すると、すぐに答えた。
 感情のこもらない口調で。
「駄目だ」
「何でや?」
「お前が敵ではないという証拠は、何処にもない」
 アカツキがそう言うと、ナセルは心なしか、焦ったように口調を速めて言った。
「そ、そないなこと言うけどなあ……時間がないんや! ……もうええ。このまま言うで。……わてのことは気にせんと、はよ二人とも逃げえ! この仕事、初めから仕組まれとったんや! もう、ファザードも、ハルも、ミュティエも……わてだって、もう長うない。残ってんのは、あんたら二人だ……」
 そこで、ナセルの言葉が止まる。
 先ほどまでとは、明らかに違う。
 ……ナセルの胸に、一本の刃が生えていた。
「ナセル……!」
 言葉を発したのは、ティレニアである。
 ズル……という音と共にナセルの胸からそれが引き抜かれると、ナセルはゆっくりと地に臥し、それに変わって、一人の男が現れた。
 同じような黒装束の、身長はティレニアとそれほど変わらない男である。
 その外套には飛び散った血の跡がいくつか見られたが、そのオールバックにした黒髪は、全く乱れた様子がなかった。
「……ウルミエ」
 いつもとそれほど変わらない口調で、アカツキは言った。だがそれには、どこか熱っぽさが感じられる。……普段から彼と一緒にいる者にしかわからないくらいの、微妙な変化であったのだが。
「あんたが、黒幕か……?」
 今はそんなアカツキの些細な変化を気にしている余裕はない。ティレニアは笑みを浮かべることもせずに、ウルミエを睨みつけて、言う。
 それに対しウルミエは、にやりと口元を吊り上げた。
「さあ?」
 ふざけるなっ!!!
 そう叫びたかったが、今ここで騒ぎを起こし、もっと敵を増やすという厄介事だけは避けたかった。
 しばしそのまま、無言で対峙。
 ティレニアは倒れたままのナセルを一瞥すると、百八十度方向転換して走り出した。
「…………」
 ティレニアの意を悟ったのか、それともたまたま同じ考えだったのか。ともかくアカツキも、ティレニアの後を追うように走り出す。
「待て、アカ……」
 ぐん……と少し前に揺れるようにして、アカツキたちの後を追おうとしていたウルミエの体が、不意に止まった。
 視線を、下へと下ろす。
「行かせんで……。笑い方も、まともに教えてやれへんかったんや。せめて、これだけでも……」
 そう言いながら笑うナセルの手は、しっかりとウルミエの左足を掴んでいる。
「……死に損ないが」
 ウルミエの手が、その握った刃を、垂直に振り上げた。




 自分たちを取り囲むようにして立っている十数人の人間たちは、皆、同じような格好をしていた。
 気が重くなるような暗い色の外套に、正体を隠すための顔の下半分を覆う黒い布。その手には、大小様々な冷たい光を放つ物が握られている。
 そしてそれらには全て、同じ紋章――〈スルーズ〉の紋章が刻まれていた。
「まったく……どうなってるんだ?」
 そう微苦笑を浮かべながら言ったのは、勿論ティレニアである。
 あれから、まだ十分と経っていない。それなのに、まさかこれほどの人数がすぐに集まってくるとは。
 ……前々から、この辺りに潜伏していたか?
 ふとそのようなことが頭をよぎる。
 考えられないことではなかった。確かに自分たちがここを通った時には、誰かがいる気配などはしなかったが……仮にも彼らは〈スルーズ〉の傭兵なのである。気配を消すなど、朝飯前だろう。
 それに、これは仕組まれたことだと……初めから仕組まれた仕事だったと、あの時ナセルは言っていた。
 それに加え、何者か――これも〈スルーズ〉の傭兵だろう。考えるまでもない――がティレニアを、今回の仕事で仮にも同じチームだったリアスがアカツキを殺そうとした。
 そして、あのウルミエ。
(……ナセルの言葉を信じれば、殺られたのはファザード、ハル、ミュティエ……それに、ナセル)
 ティレニアが、頭の中でその人物たちの顔を浮かべた。いずれも自分やアカツキに劣ることのない腕を持った傭兵である。
(…………そうか)
 それと同時に浮かんだのは、それ以外の、今回のメンバーたちの顔と、共通点だった。
「ヴァレンスか?」
「アカツキ!?」
 ティレニアは反射的に、自分と背を合わせるようにして立っているアカツキへと視線を向けた。
(……気づいていたのか?)
 胸中で問う。……おそらく、そうなのだろう。いつからであるかは、ティレニアにはわからないが。
 ウルミエを筆頭とする残りの七人――ナセルやファザードと殺り合ったのだ。彼らが今も全員生きているとは考えにくかったが――の共通点は、ヴァレンスにあった。……いや、ある意味では、すでに亡き者となっている四人と自分たち二人の共通点も、ヴァレンスにある。
 ヴァレンス・キル。
 要は彼に従順な態度をとっているか、反抗的な態度をとっているか、である。
 ウルミエなどはいつも彼の動向のままに行動していた者の最たる例であるし、アカツキは彼に反抗していた、一番良い例である。
 アカツキが、自分たちを取り囲む傭兵の一人を睨みつけて――本人にその気があるのかないのかは別として――言った。
「ヴァレンスが今回のことを、仕組んだのか?」
「…………」
 傭兵は答えない。だがそれは、肯定しているように見えた。
 だとすれば何故、ヴァレンスはこのようなことを仕組んだのか……?
 考えるべきはそれであるが、どうやら彼らは、そんな時間は与えてはくれないようだった。
 示し合わせたかのように、二人の傭兵が同時に飛び出してくる。アカツキの側に一人、ティレニアの側に一人。二人とも、手には似たような物を持っていた。
 両刃の剣である。
 彼らはそれを、大きく振り上げた。
 刹那。
「は……!?」
 金属同士のぶつかる音は、しなかった。
 傭兵二人の、何が起こったのか理解出来ていないような声だけがその場に小さく響く。……いや、実際に声を上げたのは、一人だけだった。アカツキの側の傭兵である。
 一瞬後。
 ……ズザ。
「「ぎ……ぎゃああああああっ!!」」
 今度の悲鳴は、二人ともが上げたものだった。
 アカツキ側の人間は、その体を腹を境に上下に切り分けられている。
 ティレニア側の人間も、同様だった。ただしこちらは、剣を持っていたはずの両腕が、肘の辺りからごっそりと無くなっている。
 その肘と握ったままの剣は、彼の後ろに――他の傭兵たちの目の前に、地面に突き立つようにして落ちていた。
 切り口から溢れた血が、どろりと、手から柄を伝い、剣を濡らしていく。
「……!」
 それに恐怖でも感じたか、傭兵の数人が、びくりと一瞬肩を強張らせた。
(……オレたちを始末するために向かわせたにしては、弱いな)
 ティレニアは胸中で呟きながら、両の手に持った二本の短刀を軽く振った。赤色の滴が、白銀の刃から離れ、地に落ちる。
(所詮は金でかき集めた下級兵、か)
 ヴァレンスのことだ。考えられないことではない。
 この程度の傭兵が相手ならば、考え事をしながら彼らと殺り合うのも、それほど難しいことではなかった。まあそれも、ティレニアの腕があってこその芸当なのだが。
(ヴァレンスは今まで、反抗分子(オレたち)を積極的に排除しようとはしなかった。むしろ、自分の側に引き込もうと必死だった)
 新たに傭兵が数人、アカツキとティレニアに斬りかかる。同時、背後でアカツキが『ノルン』を振るう、ヴン、という音。傭兵は、悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされたようだった。重いもの――その傭兵だ――が木にぶつかった、だん、という音が一瞬遅れて聞こえてくる。
(どうして急に、こうも積極的に動き出した?)
 ティレニアは姿勢を低くして逆手に持った短刀の片方を突き上げる。傭兵は目の前で、血を噴きながら左右に分かれ、倒れた。ティレニアの頭に、傭兵の体から噴き出した血が雨のように降ってくる。銀髪が筋を入れたように、赤く染まった。
(何か、理由があるはずだ……)
 両脇に現れた傭兵の胸に短刀を突き刺しながらも、思考をめぐらす。
 ふと、
(奴はずっと、我慢していた……?)
 ぶすりと刃を引き抜くと同時、頭をよぎった言葉。
(奴はずっと……長の座を狙っていた!!)
 それが答え。
 おそらく今回のことをずっとたどって行くと、最終的にはそこに行き着くことになる。
 一度答えにたどり着けば、あとは思考が勝手に流れるだけだった。嵐の日の川のように、激しく、思考が渦巻く。
(ライラット公は、確かにもう長の座を退いてもいい年齢だ。だが退かない。ヴァレンスにスルーズの名を渡さない。……そう言えば巷じゃあ、アカツキガスルーズの名を継ぐんじゃないかっていう噂もあったな)
 それは単なる噂に過ぎない、とティレニアは思う。確かに現〈スルーズ〉長であるライラット・フォン・スルーズはアカツキを大切に――事実、本当の息子であるヴァレンスよりも――してはいたが、だからと言ってスルーズの名を継がせるようなことはしないだろう。アカツキがスルーズの名を継ぐということは、アカツキが次の〈スルーズ〉の長になる、という事である。アカツキは確かに傭兵としては超一流であるし、ライラットには従順であるが、それは彼に対する恩故であるし、だいいちアカツキは巨大な組織のトップに立つような男ではない。それはライラットもわかっているはずである。
 だがその噂は、有り得ないことであるとはいえ、ヴァレンスの精神を深くえぐったはずだった。修復出来ないほどに。
(それでヴァレンスは、我慢が出来なくなった。一刻も早く長の座を手に入れなければ……そういう焦りが生まれた。そして、自分が長の座に着いた際、反乱分子になり得る……その頭になり得るオレたちを、今のうちに消してしまおうと思った)
 それならば納得がいく。そしてその計画は、いまやほぼ完成しつつある。残りはアカツキとティレニア、二人だけ。
 何かを感じたか、ティレニアが急に地面に這いつくばるように姿勢を低くする。
 刹那。
 ヴ……ン。
「ぐあっ!」
 ティレニアの頭上を『ノルン』の赤い柄がアカツキを中心に円を描くように通り、その円の内にいた傭兵が数人、吹き飛ばされる。
(だとしたら……)
 立ち上がるティレニアの頭の中に浮かび上がった、一つの言葉。
 最終的な結論。
 自分たちがフェンサリルの町から――〈スルーズ〉から離れたところで消されようとしていた、もう一つの……いやあるいは、本当の理由。
「アカツキ」
 ティレニアは背中越しに言う。その声は多少震えているようにも聞こえたが、何かを決心しているようなものにも聞こえた。
「何だ?」
 アカツキは視線を前方に固定したまま、振り向くことなく答える。その声が全く動揺を含んでいないのは、彼がそのことにはまだ気づいていないからか。
 ティレニアは小さく、だがはっきりと言った。
「お前は一人で、先に〈スルーズ〉に戻れ」
「何で?」
「……ライラット公が危ない」
「……!?」
 やはりそこまでは考えが及んでいなかったのか、アカツキがその赤い瞳に微かに驚愕の色を浮かべ、ティレニアを見る。
 ティレニアはいたって冷静に……冷静を保っているように見えた。
「気づいてるだろう? 気配が十……二十。ともかく、こっちに近づいてきてる」
 ティレニアの言ったことは、嘘ではなかった。今ここにいる傭兵――その内戦闘可能であると思われる者――は六人ほどだが、新たに何人か――それもかなりの数が、近づいてきている。
「二人で捌(さば)けばいい」
 アカツキが言う。
 確かに、二人で……本気で戦えば、それほど時間はかからずに片付けられる数である。
「いや」
 ティレニアが、襲いかかってきた傭兵の胸に短刀を突き刺し、言う。ただし、その顔は傭兵の方を見ていなかった。近づいてくる気配……その方向を、ただ見つめている。
「お前が一人で行け。ここは、オレ一人で十分だ」
「……だが」
「お前が行け。一人で、だ。こうしている間に、ライラット公にもしものことがあったらどうする!」
「…………」
 最後の一言が効いたのか、アカツキが黙る。
 何故〈スルーズ〉に戻るのが一人でなくてはならないか。それはアカツキもわかっていた。二人でここを突破してから行くよりも、一人が足止めし、一人が向かうほうが早い。
 それに戻るのがティレニアではなくて自分でなければならないと言うのも、決してわかっていないわけではない。もしも〈スルーズ〉がすでにヴァレンスの手に堕ちているのだとすれば、向こうでの戦闘というのも在り得るし、それはここでの戦闘のレベルを遥かに凌ぐに違いない。それならば、ここのところ一人での仕事が多かった――つまるところ独りでの戦闘に慣れている――アカツキが〈スルーズ〉に向かうのが得策と言うものである。
 刹那。
 ガキィイインッ。
 アカツキの振るった『ノルン』で、その間合いに入って来ていた傭兵の手から剣が消え、同時、傭兵の体から頭も消える。
 アカツキはしばし沈黙を含んでから、その口を開いた。
「……わかった」
 その言葉に、迷いは感じられない。それはやはり、ティレニアの実力を信じているが故か。
 それだけを言うと、アカツキは駆け出した。向かうは〈スルーズ〉、フェンサリルの町。
 ティレニアの耳には、アカツキの走り去る音だけが聞こえる。
 その背中に、
「……オレもすぐに、後を追う。これを、片付けたら」
 ティレニアは小さく呟いた。アカツキの耳には、おそらく届いてはいまい。今のはどちらかと言うと、自分に言い聞かせようなものだ。
(確かに雑魚だが)
 ティレニアは胸中で呟き、口元に微笑を浮かべる。それは余裕と言うよりは、ある種の緊張から来たものだった。
(流石にこれは、本気でいくしかないな)
 そう胸中で言うティレニアの周囲。
 そこには、ティレニアを取り囲むようにして、同じような格好をした傭兵たちが三十人ほど立っていた。


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Photo by Natuyumeiro