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三章 偽りの大罪 -the innocence- T
その長い廊下には、高価としか言いようのない――つまりはそれ以外に取柄のない――壺が、いくつも並んでいる。そして壺から少しばかり視線を上にずらすと、その壁にもまた、いくつもの絵画が掛けられている。
カヴァティーナ邸。
町外れにあるこの豪邸は、やけに静かだった。普段とそう違いないと言ってしまえば、それまでではあったが。
もとよりこの家は、それほど評判のいいほうではなかった。いまさら何かが起こったとしても、周辺の住民たちはそう驚きはしないだろう。
塵一つ落ちていないような、白い大理石の床を真っ直ぐに進んでいく。
その廊下の果てには、一つの扉があった。繊細な模様の彫りこまれた、木製の大きな扉である。
その扉の向こう。
ベランダへと続く八枚の巨大なガラス窓は、いづれも白いレースのカーテンと分厚い臙脂色の遮光カーテンで覆われていた。その二枚のカーテンの間から漏れた光が、うっすらと部屋の中を照らしている。
部屋の片隅には、黒いグランドピアノと数人で腰を掛けることが出来そうな大きな白いソファーに、テーブル。その反対の部屋の隅には、この部屋の――あるいはこの家の――主人のものであろう、白いシーツで清潔に整えられたダブルベッドがあった。その他壁際にはいくつもの本棚、飾り棚があり、そのどれもが高級品である。
そして正面――八枚のガラス窓を区切るように位置する中央の壁には、一つの巨大な肖像画が掛けられていた。
これまたいかにもな金色の額の中に入っている顔は、豊かな口髭を蓄えた、厳しい顔つきの四十代半ばの男性である。
言わずもがな。彼こそがこのカヴァティーナ家をたった一代で遥か高見へと引き上げた男、ヴェリズモ・カヴァティーナである。
だが彼は、もういない。
いや、彼だけではない。この家の住人は皆――彼の家族から使用人まで、この部屋に来てしまったものは皆、もういない。ここにはいない。
今この場所で、生きているのはたった一人の男だった。
この家の主人の肖像画の前に、黒い影をつくっている男。
全身黒装束で、その長身をも超えてしまいそうな巨大な赤い槍をその手に提げている男。
この家の住民を、皆殺しにした男。
その手にヴェリズモ・カヴァティーナの首を、持っている男。
その赤い瞳には何の感情も浮かべず、アカツキはただ、そこにいた。
アカツキがその部屋を去ろうと足を踏み出すと同時、血を吸って赤く染まった絨毯が、ぐちょりと音を立てた。
世界の国々が『平和保守条約』により手を結び、世界から国同士の戦争というものがなくなってから、早五十年余り。
フォルド公国。
大陸中心部に存在し、ここ五十年で更なる進歩を遂げ、経済的な面でも『大陸の中心』となった国。
そして以前は、巨大な軍事力を抱えていた国である。これはその賜物か、フォルド公国が古来よりその領土を変えたことは一度もない。
ただしその軍事力も――まれに民間人の間で噂される裏軍隊のことを無視すれば――、いまやほぼ皆無に等しい。
それは全て、『平和保守条約』の内に含まれる『貴国所有の正規軍の軍備縮小』なる条約文故である。
条約調印後、世界の国々で多くの軍人たちが職を失った。そして必要のなくなった多量の軍事費を用い、世界は急激な経済発展を遂げたのである。
そのための犠牲として目をつけられたのは、フォルド公国の場合、今までの戦争で常に主力であった歩兵部隊であった。
歩兵と言えども、ただの歩兵と思うなかれ。
五人ほどのメンバーで構成される小隊が全部で五十。さらに時にはそれらを組ませて指揮し、いつもはほぼ単独――多くてもペア――で行動する最高ランクのものが八人。さらに大公の側近に、二人。
総勢二百六十人ほどのこの歩兵部隊の役割は、真っ先に戦場に飛び込み、自らの命をも顧みず、敵軍の戦力を少しでも削ぐこと……ではない。
大軍同士での交戦以前に敵陣に密かに潜り込み、その情報を収集。さらにはその時点での、敵軍の戦力の半減、または殲滅。これらの仕事を主にこなし、主戦力ではあるが前線に姿を現すことなど滅多にない。
いわゆる『暗殺』である。
しかし現実、彼らのほとんどが条約文によりその任を解かれた。何故かはわからない。大公が機械仕掛けの最新兵器に魂を奪われたという噂もあるし、裏で『世界平和機構』が糸を引いているという噂もある。
何はともあれ、今現在元歩兵部隊員として公国軍に残っているのはほんの十数名。大公の側近として二人、大公直属の禁軍の内に残り数名、というような状況である。以前のような『歩兵部隊』というような名目の隊は、存在しない。
問題は、それではなかった。自国の軍事力が低下したのは、どこの国でも同じことである。
問題は、解雇された元歩兵部隊の兵士たちのほうだった。
平均年齢三十二。下は十代半ばの世間一般では子供と称されるような者から、上は六、七十のあまりにも元気な御老体まで、もちろん男女を問わずに様々である。
そしてその中のほとんどは、兵士となるべくして生まれ、兵士となるべくして育てられた者たちだった。
彼、彼女らがこれまでに教えられてきたものは、商売の仕方や社会道徳などではない。気配の殺し方、武器の扱い方、そして人の殺し方である。
今更『普通』の生活をしろと言われても、出来るはずがない。
略奪、強盗、殺し……。それらの出来事(ニュース)を日常的に耳にしだしてから、およそ二年後。
この世界に、『多国籍傭兵ギルド』が誕生した。
創立メンバーは、世界各国の条約文によりその任を解かれた元歩兵部隊員――フォルド公国ほどの人数は持ち合わせていないが、確かに他の国にも同じような隊は存在した――の五名である。
彼らのお陰で各地を彷徨っていた兵士たちは仕事を求めギルドに集まり、以前のような悲惨な出来事も、確実に数を減らした。
一つのギルドで抱えられる傭兵の数が限界にきたからか、五十年ほど経った今では、七十を超える数のギルドが世界中に散りばめられている。
その中の一つ。
創立メンバーの一人が創った、フォルド公国北西端にある深い森に囲まれた町、フェンサリルにあるギルド。
それが、『多国籍傭兵ギルド〈スルーズ〉』である。
扉が開く。
陰湿な色をした、巨大な二枚の鉄の扉。その幅は巨大な戦車が二台も並んで通れるほど広く、高さはその二倍ほどもある。まさに巨人のための扉である。
だがその扉が開くのは、巨人を通すためではなかった。その扉を行き来するのは、人間である。
中にいる人間たちは、その扉がいつ開こうと、そこに立っている人物が誰であろうと、動じることはなかった。たとえそれが一国の王などでも、である。
ただし、今日は違った。
「おい」
一人の男が、隣にいた男に囁くように言う。顔は扉の方に向けたまま。
「帰ってきた」
その小さな一言がこの広い――ゆうに一万人は収まるであろう――室内の全てに響いていたとは到底思えないのだが、とにかくその場にいた人々は皆、その言葉を合図にでもしたかのように一斉に扉の方へと目を向けた。
扉の開いた、その大きな空間。
そこに、一人の男が立っている。
身長およそ一九〇センチ、癖の強そうな黒髪は肩の辺りで紐で縛っていて、前髪の間から覗く瞳はまるで血のような鮮烈な赤で、鋭い。黒い外套を体に巻きつけていて、その足には合成樹皮の頑丈そうな黒のブーツを履いている。年齢は、口元に黒い布を巻きつけているためにわからない。おそらく二十代ではあるのだろうが。
「アカツキだ」
ぼそりと、明らかに歓迎とはとれない声。初めに言葉を発した男か、もしくは全く別の人間が発したものかはわからないが……。
アカツキと呼ばれたその男の左手――それだけが外套から生えたように伸びている――には、その長身に勝るとも劣らない赤い棒が握られていた。
その先端に鋭く煌くものを生やした、赤い棒。
これが何と言う名称のもので、何をするために使用する物なのか。
そんなことはこの場にいる者ならば誰もが……いや、極度の平和ボケの人間以外は誰もがわかることである。
それは槍。
人を殺すための道具。
自らを守るための道具、と言う者も、中にはいるかもしれない。
だがそれは、人間全体で物事を見たときの答えだ。ここにいる者たちから、そのような答えが返ってくることなどまず有り得ない。
ここは、ギルドなのだから。
傭兵に仕事を与える場所……と言えば聞こえはいいが、実際は殺し屋たちの溜まり場である。
『多国籍傭兵ギルド〈スルーズ〉』。
大陸の中心フォルド公国の北西端、フェンサリルの町に居を据えるそれは、最大最強と謳われるギルドである。
どうしてこんなに無意味に巨大なのか、考えたことはなかったが。
ともかく、扉が開く。
それは人が通るには大きすぎる扉だった。見上げていると首が痛くなる。
壁と言っても過言ではないような分厚い二枚の鉄のそれには、その大きさに合わせたかのような巨大な何かが掘り込まれていた。
盾の前で交差する、二本の剣。
ここ――『多国籍傭兵ギルド〈スルーズ〉』を表す紋章である。
見た目通りに馬鹿に重い扉が鎖に引かれゆっくりと開き、その紋章が真ん中から二つに割れると、まっていたのはいつもとあまり大差ないものだった。
別に、歓迎されることを期待していたわけではない。むしろそんなことがあれば、世界の終わりだと嘆くくらいのことはしたかもしれない。例えば、ため息をつくとか。
冷たい視線――恐れや妬み、さらには呪詛のような視線が、矢のように体中に突き刺さる。
(実際の矢よりは、幾分ましだ)
そんなことを胸中で呟きつつ近くにいた男を一瞥すると、その男は急に悲鳴を上げ、背を向けてその場を走り去った。
別に睨んだわけではない。ただそちらに視線を投げると、目が合っただけのことだ。
自分がそんなに人相が悪いのか、特に気にしたことはなかったのだが……。毎度人間がこのような反応をするところを見ると、実際そうなのだろう。
だとすれば、相棒の忠告に少しは耳を貸してもよかったのかもしれない。
『少しは愛想良くしろ。せめて笑え』
だがいつものようにそれを無視することをせずきちんと聞いていたとしても、自分がその通りに出来るようになるとは思えない。
大体、笑うとはどうすればいいのか。
そんなことすらわからない。出来るはずがない。
これはそんな自分に対する慰めなのか、それとももっと別のものなのか。そんなことはわからなかったが。
(……殺し屋に笑顔なんて、必要ない)
そんなことを言えば相棒に後ろから今すぐにでも殴られそうだが、幸か不幸か、今ここに相棒はいない。
今回の仕事は、一人だった。
ギルド内では珍しいことだと言えた。もともと何処のギルドでも行動の基本は二人一組。それはここ〈スルーズ〉でも同じである。
仕事は主に――ギルドに直接持ち込まれたもの意外は――ギルドと同時期に発足した『情報提供ギルド』より持ち込まれる。クライアントは『情報提供ギルド』に所属する会社――俗に情報屋と呼ばれる――にその仕事を持って行き、不足する情報を会社側が補った上で『多国籍傭兵ギルド』へその仕事を渡す。ギルドの傭兵はその仕事を受け取り、ただ遂行するのみである。もちろん、クライアントのことはほとんど何も知らない。そしてその遂行完了の知らせをギルドは情報屋へと持って行き、情報屋はクライアントへと渡すわけである。
仕事の内容は、主に五つのランクに分けられる。最低ランクがCであり、それからB、Aと上がる。その上にさらにSランクがあり、そして最高ランクのSSがある。
Aランクまでは、大抵ペアでの行動が基本である。S、SSランクになると二組以上で組まされ、行動することがほとんどである。一組で行動する場合もあるが、それはそのペアがかなりの実戦経験と実績を兼ね備えているときのみである。
そして今回の彼の仕事は、最も難しいとされるSSランクのものであった。
『商業家ヴェリズモ・カヴァティーナの暗殺』
彼の受け取った依頼書には、そう書かれていた。そして付け足しのように、小さく一言。
『必要とあらば、その家族および使用人の生死は厭わない』
実際彼は標的であったヴェエリズモ・カヴァティーナ以外にも、その家族と使用人――簡単に言ってしまうとその家に住んでいた者全てを殺している。
だがそれは決して、契約内容を盾にした快楽的な殺しではない。
彼らが仕事の邪魔をした。だから殺した。……ただそれだけのことだ。
もともと彼は、『殺す』ということに特別な感情を持っていない。……いや、はたから見れば、何事に対しても――言うなれば、『感情』というものを持っていないようにも見えたかもしれない。
彼はそのまま周囲の視線を気にすることなく――と言うよりは、自らが感じたものを表情や仕草に全く表すことなく、その広い部屋を真っ直ぐ奥へと進んで行く。人は、こちらから避けなくとも、勝手にそちらから避けてくれた。
ある程度進んだところで九十度方向転換し、そしてまた真っ直ぐに進む。
目的の場所へは、すぐに着いた。
そこにあるのは他と同じ擦ってもなかなか落ちそうにない汚れの付いた白い壁ではなく、カウンターだった。塗料を上から塗ったような暗い色の、木製のカウンターである。
そしてそのカウンターの奥には、まるでどこかの洞窟のようにごっそりと空間が開いている。明かりは数個の小さなランプという、薄暗い部屋である。壁はぎっしりと敷き詰められた整理棚で覆われているために、その色は確認できない。おそらく他のものと同じではあるのだが。
カウンターの上には、黒く太い文字で『管理課』と書かれたプラスチック製の板が置かれていた。
つまるところここは、ギルドに所属する傭兵たちに仕事を与え、その成果を受け取り、報酬を彼らに与えるギルド管轄の情報屋とのパイプ役である。情報屋からの仕事の依頼の享受も、主にこの部署が管轄とする。
「やあ、お帰りアカツキ」
彼の姿を――と言うよりは、彼がここに入って来た時の周囲の人々の反応を――見て、一人の男がカウンターの奥から姿を現した。
どちらかと言うと小柄ではあるが、どこかがっしりした感じのする体型の、顔に幾本もの深い皺を刻んだ男性である。
だがその体型も、彼の現役時代を聞けば頷けることだった。
今ではもう八十近い御老体ではあるが、かつてはフォルド公国軍第六歩兵部隊小隊長を務めた男である。しかも当時は、まだ二十代前半であったとのとこだ。
その心はまだまだ若く、現役時代が忘れられないのか、半年ほど前に『お前らなど片手で十分じゃい』と若い傭兵たちに喧嘩を売ったこともあった。実際、血の気の多かった傭兵たちは一斉に彼に飛び掛かって行ったのだが、数秒もせずに決着はついた。彼の圧勝である。
昔からそういうことは何度かあったらしく、彼の名前をギルド内――と言うよりは、このフェンサリルの町に住む人間で知らない者はいなかった。
ツァンク・ドグトン。それが彼の名前である。
そしてアカツキを恐れず対等にあたってくれる、数少ない人間の一人であった。
「意外と早かったな。もう半日はかかると思っていた」
「……普段通りだ」
言って、彼――アカツキはその身を覆っている外套の前部を跳ね除け、右腕をカウンターに――と言うよりはそこにいるツァンクに向けつき付けた。
その手には、一つの袋が握られていた。
黒い革製の、さほど大きくもないが小さくもないといった感じの大きさの袋である。その口は、茶色い革紐でしっかりと閉じられていた。
「ああ、そうだろうな。お前さんの仕事が早いのは、もうわかりきったことだ」
ツァンクは口の端をほんの少し吊り上げ笑うようにそう言いながら、袋の大半がそれそのものとは違うもので染まり、妙な光沢を袋が持っていることをまるで気にする様子もなくアカツキの手からそれを受け取った。
カウンターの下に備え付けてある小さなランプに明かりを灯すと、ツァンクは袋の口を開け、その中身を確認した。普通の管理官ならばここで依頼書に添付された情報書類と比較しながらそれが依頼の品、または証拠品であるかどうかを確かめるのだが、ツァンクはそれをしない。どうやら彼の頭の中には依頼書の情報が全て叩き込まれているようであった。おかげでその作業は、他の数倍速い。
三十秒ほどツァンクはその袋の中のものを向きを変えたりして確認すると、急ににやりと笑った。彼の確認が済んだ時の癖である。
そしてその笑みが表れた時の鑑定結果は、いつも決まっていた。
ツァンクは袋の口を閉めながら、部屋の奥にいる女に声を掛ける。
「イーラ、ナンバー 一一四七八三の報酬を持って来てくれ」
「はい、ドクトン管理官長」
部屋の奥で、イーラと呼ばれた黒髪を長く伸ばした女がツァンクの言葉に答え、整理棚に覆われていない唯一の場所に穴を開けた。よく見るとそこは金庫のようであり、開けられた分厚い扉が半分ほどその姿を見せている。
その穴の奥に姿を消すイーラを普段と全く変わりない熱のこもらない目で眺めながら、アカツキは口を開いた。
「相変わらず、固いな」
「お前の言えることじゃないだろう?」
ツァンクが、にやりと笑みを浮かべて言う。それは皮肉った笑みなのだろうが、それほど嫌な感じはしない。
それほど待たせることもなく、イーラはその手に麻の袋を握り締めて金庫の中から出てきた。そのまま真っ直ぐに――まるで人形のように真っ直ぐ前を向いたまま、こちらに向かって歩いてくる。歩調を乱すことなく、こつこつと、一定のリズムで。
「管理官長」
言って、ツァンクに袋を差し出す。ツァンクはそれを受け取ると、カウンター越しのアカツキに差し出した。
「ほれ、報酬だ。きっちり三〇〇〇〇〇〇ジル入ってる筈だが、不安なら自分で確認してくれ」
アカツキは右手で、それを受け取る。
「オレはあんたを信用してる。わざわざ自分で数え直すなんて、そんな面倒なことはしな……」
そこで、アカツキは言葉を切った。右手を外套の中に仕舞う。左手は外に出したままだった。いくらなんでも、自分の身長―― 一九〇はある――に匹敵するような槍を、外套の中に仕舞うことは出来ない。
別に待っていたわけではない。むしろその場から逃げ出したかったのだが、やはりそいつはそこに現れた。
「おや、アカツキじゃないか」
ねっとりとした、嫉妬深そうな声。実際、彼に目をつけられた者は一生逃げることが出来ないと、ギルド内でも評判である。
しかも彼自身そのことを知ってはいるのだろうが、全く気にした様子はない。
「……ヴァレンス」
普段感情の色を示さないアカツキの真紅の瞳が、一瞬不快そうな色を灯す。
身長およそ一七〇センチ、体重六二キロ程。中肉中背……と言うよりは多少肉付きがよく、いわゆる一般中年男性の体型のそれである。
明らかに、傭兵という柄ではない。
……世の中に、このような体付きをした傭兵がいない、と言うわけではない。ただこの男には、傭兵に感じられる一種の匂いというものがなかった。
己の命をいつも張っている、そういう緊張感が欠落しているのである。
彼の匂いをあえて言うならば、それは金で何でも解決しようとする歪んだ性格の貴族のそれに似ていた。
ヴァレンス・キル。四十一歳、独身。
このギルド〈スルーズ〉の設立者であり現当主、ギルド長ライラット・フォン・スルーズの一人息子である。
ちなみにヴァレンスが母方の姓しか継いでいないのは、彼がまだギルド長ではないからである。スルーズの名を継ぐのは、彼がライラットから長の役を譲られた時、と言うことになる。
ただし、スルーズの名を継ぐのが彼だとは、まだ決まってはいない。
「……ヴァレンス?」
アカツキの言葉に、ヴァレンスが眉をしかめる。こめかみの辺りの血管が浮いて見えるのは、おそらく見間違いではないだろう。だがそれはいつもの――彼がアカツキに突っかかってきた時はいつものことである。アカツキは特に気にしなかった。
「ヴァレンス様だろう、ヴァレンス様。私は次期長だぞ? 貴様の主人だ、アカツキ」
アカツキは冷たい目でヴァレンスを見下ろして――身長差から自然とそういう形になる――、吐き捨てるように言った。
「ギルド長と傭兵にそのような徹底した主従関係はない。オレがライラット公の命を聞くのは、彼に恩を感じているからだ。オレは貴様などに恩はない。……それに次期長の席は、まだ空席だったはずだが?」
かあっと、ヴァレンスの顔が赤くなる。特に最後の言葉が効いたらしい。流石にこれはと思って、今まで口にはしていなかったのだが。
しばらくヴァレンスは、そのまま小さく体を震わせるばかりで何も言ってくる様子はなかった。
アカツキは体の向きを変え、この建物の出口に向かって歩き出す。いつの間にか、アカツキの周囲半径三メートルほどに人の姿はなくなっていた。皆ヴァレンス――もしくはアカツキ――には関わりたくないのだろう。ツァンクまでもが部屋の奥に移動し、こちらの様子をちらちらと伺っている。
「おや?」
落ち着きを取り戻した……と言うよりは憂さ晴らしの玩具を見つけた子供のような声が、背後からした。
いちいち振り返って確認するまでもない。ヴァレンスである。
「これは何かな?」
ヴァレンスの手が、アカツキの左手に握られている長大な赤い槍に伸びる。その柄に。
「おやおや。傷ですか? この最大最強と謳われるギルドの中でも特に一目置かれている存在の君が、自らの武器(えもの)に傷を……?」
ヴァレンスの口が、笑みに引きつる。
「今回の仕事は、さぞかし苦労したのでしょうねえ……?」
「触るな!」
ヴン……と、アカツキが槍を一閃した。
柄についた刃物傷に触れようとしたヴァレンスはその格好のまま、数歩後退する。
ピタリ、とアカツキの槍の先に付いた白刃が、ヴァレンスの鼻先を捕らえた。
ヴァレンスは前に出した手を引くと、両の手を上げて嫌な笑みを浮かべて言った。
「普段感情を露にすることのないアカツキが、どうしたんです?」
「オレの槍(ノルン)に、触るな」
明らかに、アカツキの顔には焦りと苛立ちの感情が表れていた。ヴァレンスはそれを楽しんでいる。……だが、この怒りは抑えられそうにない。いつものように無関心を通すのは簡単ではなかった。
数秒間、無言の状態が続く。周囲の者たちも無言でこちらに見入っているのか、あるいは全くにこちらを無視して普段通りの行動へと無理矢理移行させたがこちらの耳にその雑音が入り込んできていないだけか。
ともかくそこには、音が無かった。
一秒が、やけに長く感じる。
その緊張した空間の中でアカツキの槍――彼は『ノルン』と呼んでいたが――が全くの静止を保っていることを知ってか、ヴァレンスは次第に汗ばんできたその顔に、無理矢理引きつったような笑みを浮かべた。
「……まあ、せいぜい仕事に励むんだな」
そう言って彼が数歩後退し、くるりと百八十度方向転換すると、一気に世界はこちら側へと戻ってきた。
……音がうるさい。
ヴァレンスは自然と左右に開ける人の道を進みながら、建物の奥へと帰っていく。
アカツキは一つため息をつくと、体の向きを先ほど向かっていた方向――町中へと続く扉の方へと直した。
何事も無かったかのように、再び顔に無表情という名の仮面を被って、歩き出す。
後ろから、ツァンクの声がした。
「ああいうのは、程々にしとけよ」
あんたの言えることか、とアカツキは言い返したかったのだが。
(そこらの傭兵とギルド長の息子じゃあ、違うんだろうな)
何となく頭の隅でそんなことを考えつつも、彼の頭の中にヴァレンスに頭を下げるなどと言う考えは、塵一つも思い浮かばなかった。
「アカツキ……!」
『多国籍傭兵ギルド〈スルーズ〉』の建物奥にある自室で、〈スルーズ〉ギルド長ライラット・フォン・スルーズの一人息子であるヴァレンス・キルは、デザインと言うよりは頑丈さを重視されたような、すぐにオーダーメイドだとわかる高価そうな木製の机に右の拳を真上から打ち下ろして、毒づいた。
部屋の窓は全て、分厚い若草色の遮光カーテンによって光の進入を遮られている。室内の照明器具は、何一つその中に光を灯しているものは無かった。
暗い。時刻は昼であるが、この部屋の中は真夜中のようである。
そこに彼以外の人間は、誰一人いなかった。
彼の頭の中を、憎悪と羞恥の念が駆け巡る。
(よくもあのような言葉を、堂々と……っ!!)
彼は怒りに顔を再び赤面させ、体を震わせた。
あの言葉とは、もちろんアカツキがヴァレンスに対して浴びせた言葉である。
『……それに次期長の席は、まだ空席だったはずだが?』
実際にはアカツキの口にした全ての言葉が彼の癇に障ったのだろうが、今彼の頭の中をぐるぐるとまるで終わることの無い螺旋階段のように回り続けているのは、この言葉である。
(何故父上は、あのような輩を大切にしているのだ!?)
彼の憎悪の対象は、アカツキからその延長線上にいる自らの父へと移る。
確かに、ライラット・フォン・スルーズのアカツキに対する対応の仕方は、他の比ではなかった。
もちろん、実の息子であるヴァレンスよりも。
アカツキは今から二十一年前、フォルド公国南西で起こった内乱に傭兵として参加していたライラットによって、その内乱により戦争孤児になり戦場を彷徨い歩いていたところを保護された。当時アカツキは五歳である。
それからアカツキは〈スルーズ〉へと連れて来られ、ライラットによって十二まで育てられた。
つまるところアカツキは、ライラットにとっては息子のようなものである。
最高ランクであるSSランクの仕事も、普段ならば二ペア以上で行動させるライラットも、アカツキにはペアではなく単独行動を命じることが少なくない。
それは可愛がるあまりに、アカツキの力を過大評価し過ぎているからだと言う者も少なくはないが、事実アカツキは、SSランクの仕事を一人でこなすだけの実力を持っていた。
今や一部の傭兵の間では、アカツキが次期長の――スルーズの名を継ぐのではないかということまでが噂されている。
それがヴァレンスには、面白くなかった。
(何故だ……。何故父上は、この私に長の席を譲ろうとしない……? もう私も父上も、それ相応の年であろうに。……それともまさか、あの噂が本当だとでも言うのか?)
それを真実として受け取ろうとしていた自分に歯がみしてか、ヴァレンスは右手を机から離すと、その正面にある壁に思い切り拳を打ちつけた。所詮根も葉もない噂だと、わかっていても。
(……アカツキ)
呪うように胸中で呟き、ヴァレンスはそのまま壁の一点――打ちつけた自らの拳を焼けるような鋭い目で見つめた。その拳の先には、おそらく、彼の怨念の対象が存在しているのだろう。少なくとも、彼にはそういう風に見えている。
数秒して、ヴァレンスの口元がにやりと引きつった。
絶好の標的を見つけた獣が舌なめずりするように、彼の舌は髭に覆われたその唇を嘗める。
「哀れな男よ、アカツキ」
口調は笑っているようにも感じられるが、その目は相変わらず憎悪の念にとりつかれている。
ヴァレンスはゆっくりとした口調で、あたかもその者のこれからを哀れむような――だが確実に楽しんでいるような口調で言った。
「他の者のように……この私に大人しく従っていれば良かったものを……」
恐ろしいほどに、考えが浮かんでくる。これまで、このようなことは一度もなかった。
憎しみとは人を、これ程までに恐ろしくしてしまうのか。
あるいはこれ程までに、腐らせてしまうのか。
「なあ? アカツキ……」
彼の笑い声が、次第に大きくなる。
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