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一章 男 -his name is- T
思わず吸い込まれてしまいそうになる青い空を、数羽の白い鳥が飛んでいく。
大陸中心部に位置する国、フォルド公国。四方を他の国に囲まれているため海はなく、しかしその土地の約三分の一は濃い緑が覆っている。
現在のフォルド公国は千年ほど前の建国時と――大小さまざまな国と隣接しているにもかかわらず――あまりその領土を変えていない。それは巨大な軍事力……さらに言うなれば、有能な傭兵が多く――そしていつの時代にも存在していたということである。
しかしそれも、この世界に存在する全ての国が『平和保守条約』に調印したことから、あまり意味を成さなくなった。巨大な軍事費は大幅に削減され、経済発展のための資金としてそのほとんどが飲み込まれていった。
こうしてフォルド公国は経済的にも大きく成長し、その位置だけでなく全ての面で『大陸の中心』となったのである。
……まあ、そんなことはさておき。
そのフォルド公国の南に位置する町、イーグレーン。緑を侵食しながら拡大していったその町の、住宅街。
白い日干し煉瓦が外壁に貼り付けられているその中層マンションの五階にある部屋のベランダで、平日の昼間だというのに、一人の男が空を見上げながらタバコをふかしていた。
「……暇だ」
小さくつぶやいて、空を北に向かい飛んでいく渡り鳥の群れを目で撫でる。
もうすぐ、春である。
「あー、もうっ」
エレベーターの扉が開くと同時、明らかに怒りを含んだ声がマンションの廊下に響く。
カツンカツンと下の階の住人からうるさいと苦情のきそうな足音を立てながら、その声の主はエレベーターから出てきた。
腰ほどまである長い黒髪に、どちらかというとつり上がり気味の黒い目。年齢は二十代中頃で、背は小さくもなければ大きくもない。着ている物はクリーム色のスーツの上下。ただし下はスカートで、そこから伸びる脚の動きには、少々危ういものがあった。
よくよく見れば、全身ボロボロである。
髪はところどころ絡まっており、この後悪戦苦闘すること間違いなし。スーツもほつれていたり裂けていたりで、おそらく修復不可能である。ストッキングなどは言わずもがな、もう捨てるしかないというような状態である。ちなみに履いている白いハイヒールはまだ何とか使い物になっているものの、ヒールの部分に亀裂が走っている。上手くバランスをとりながら歩かなければ、すぐにでも折れてしまうような状態だ。……何故か両耳に付けている紫水晶のイヤリングだけは、この有様に似合わず美しい輝きを放っていたりするのだが。
「私はあんなに厄介な仕事だなんて聞いてなかったわよっ!」
ボキッ。
「……あ」
今までよりも一段と強く踏み込んだことで、どうにかその生命を保っていたヒールはあっさりと折れてしまった。彼女はそのまま動きを止め、困惑の色を顔に浮かべる。
「……もう」
小さくつぶやいてしゃがみ込み、ハイヒールを脱ぐ。折れたヒールも拾い上げ、彼女はそのまま歩くのを再開した。幸い彼女の家は、エレベーターからそう遠くはない。
数歩歩いたところで、彼女は歩くのを止めた。黒いショルダーバックの中から、鍵を取り出す。鍵に取り付けられたキーホルダーが、チャラと音をたてた。
鍵を鍵穴に差し込み、回す。そして彼女は、ドアを開けた。久しぶり……ちょうど一週間ぶりの我が家だ。
「ただいまー」
懐かしさからか安心からか、そう言葉が出る。だいたい彼女は一人暮らしである。言葉を返してくれるような人がいないのは百も承知。返ってくる言葉がないのはすでに慣れきったことである。
しかし、今日は違った。
「おかえりー」
ハイヒールを玄関に置き短い廊下をぬけ、リビングに出る。イスの背にカバンを掛けようとしていた彼女に突然声がかかり、彼女はその声のした方に目を向けた。
何が起こったのかわからない――そんな表情で。
「よっ」
「…………」
彼女が見たのは、男だった。
タバコを銜えたままパンツ一丁でベランダを占拠している、男だった。
その場を沈黙が支配する。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
次の瞬間、彼女は叫んでいた。
「悪かった……悪かったわよ」
まるで呪文のように――イスに座りテーブルに両肘をつき、その手を額に押し付ける形で彼女はぶつぶつと呟いていた。
リオ・ガリシア。それが彼女の名である。
そして自称、『普通じゃないOL』。……その名の通り、彼女はただのOLではない。今回のように、仕事で一週間――もしくはそれ以上――家を空けることなど日常茶飯事だ。
だがこのように、家に帰ってきたら見知らぬ男が居座っていたなどということは今まで一度もなかった。
……いや、見知らなかったわけではないのだ。
ただ、
「悪かったわよ。……でもしょうがないじゃない。一週間も家から離れてたら、そんなこと忘れるわよ」
「そういうもんなの?」
「……そういうものなのよ」
数秒言いよどんで、リオは男に言葉を返した。
つまりリオは、この男のことをすっかり忘れていたのである。
リオは顔を上げ、額に押し付けていた手を今度は口元に持っていくと、いまだベランダでタバコをふかしている男に目をやった。瞬間、リオの眉がピクリと動く。
次の瞬間、リオはビッと男を指差して叫んだ。
「ちょっとあんた、ひげ剃りなさいよ! ひげ!」
「んあー」
いかにもやる気のなさそうな声で答える男の顎は、ここ数週間剃ってませんというようなひげに覆われていた。もうあと数週間そのまま伸ばしてきれいにカットすればどうにか見れるものにはなるのだが、今の状態は中途半端極まりない。おそらく一般的には『薄汚いおっさん』に分類されるだろう。どうやらリオも男をそちらに分類したようだった。
男に向けていた指を、リビングに隣接している洗面所へと向ける。
「ほら、洗面所はそっち! この際私のカミソリ使っていいから、さっさとそのひげ剃りなさい!」
「……めんどくせえ」
「いいから剃れ!」
「…………」
リオの剣幕に圧されて、男はしぶしぶ立ち上がった。タバコの火を、ベランダの床――コンクリートが剥き出しになっている――に押し付けて消す。それを見たリオの眉がまたピクリと動いたが、今回それに関しては目をつむったようだった。何の指摘もせずに、洗面所へと向かう男に視線を移す。
こうして改めて見ると、男がかなりの長身だということがわかる。一九〇センチはあるのではないだろうか。一週間前はそんなことには、気づきもしなかった。
リオと男が初めて出会ったのは、ちょうど一週間前のことである。マンションの前の道路のど真ん中で行き倒れている男を、リオが見るに見かねて家の中に引きずり込んだ。それがはじまりだ。リオが家に帰ってきたのは夕方で、そうであるからには行き倒れていた男を見た主婦は何人もいるはずである。それにもかかわらず男がまだそこに倒れていたということは、その主婦たちは男を見て見ぬふりをしたということだ。
本来ならリオも、その主婦たちと同じように男のことを無視していても誰にも咎められることはなかった筈である。
しかしリオは何故か男をほうっておくことができず、家の中に引きずり込んだ。
とりあえず憔悴しきっていた男に食べ物を与え、いずれもボロボロになって汚れていた服を繕えるところだけでも繕い、洗濯機の中に放り込んだ。
そしてリオはその後すぐに、仕事で家を出た。こんな今にも死にそうな――そして何もかもが謎に包まれた怪しさ満点の男を家に一人残すことに不安はあったが、また外に放り出して死なれるよりはましだろうと考えた上でのことである。
そして一週間後仕事を終えて帰ってくると、男は何事もなかったかのように生きていた。ただ冷蔵庫の中身が減っていただけで部屋が荒らされたような痕跡はなく、己の選択は間違っていなかったことをリオは知る。……男を家に引きずり込んでいたことを、すっかり忘れてはいたが。
「ねえ、あんた名前は?」
リオは冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、イスに腰を下ろしながら男に問いかけた。そういえば、まだ名前を聞いていない。
男はカミソリを顎に当てながら、ごく普通に言った。
「知らない」
「へえ、そう。知らないの」
その何の違和感もない雰囲気に飲まれて、リオはそのまま返事をする。ビールを口に含んだところで、リオの動きが止まった。噴き出しそうになるビールをどうにか飲み込んで、男の方に向き直る。
「ちょっ……今、何て言った!?」
「知らない」
「知らないって、それ、どういう……?」
「それより」
バシャバシャと水で顔を洗って泡を落とし、タオルで顔を拭きながら男が言った。
「あんたの名前は?」
「わ、私!?」
「そ。まだ聞いてない」
言いながら、男はリオの向かいの席に腰を下ろした。リオはビールをテーブルに置いて片肘をつくと、ため息混じりに言った。
「リオよ。リオ・ガリシア。……それより、知らないってどういうことよ? 自分は記憶喪失ですとでも言いたいわけ?」
「そ」
男は短く答えた。別に何の感情もその顔に浮かべないまま、じっとリオの目を見て肯定を唱える。
リオは固まっていた。片肘をついたその体勢のまま、黒い目だけが男を見つめる。
記憶喪失という言葉は、確かに聞いたことがあった。何らかの衝撃で一部――または全ての記憶を失ってしまうことだ。それは回復することもあれば、そのまま一生戻らないこともある。
しかしリオは、実際に記憶喪失であるという人間を見るのは初めてだった。見た目は何も自分と変わらない。もしも自分が何も知らずにこの男と町ですれ違っていたとしても、彼が記憶喪失であるなどとは気づかないだろう。
「本当、なの?」
半信半疑で、リオは男に問いかける。
「本当」
冗談なのか本気なのかわからないような口調で、男は言った。
リオは長く息を吐き、嘆息した。その視線が、男の上を這う。
肩ほどまである黒髪を束ねもせずにそのままにしているためか、ひげを剃ったにもかかわらずいまだ『薄汚いおっさん』のイメージはぬぐいきれていない。しかしそれよりも強烈な印象を与えているのは、両の赤い目だった。一点の濁りもない、血のような赤い瞳。
それを見た瞬間、リオはつぶやいていた。
「エリュトロン」
「……何が?」
男はその意味がわからず、眉を寄せる。
リオはピッと人差し指を立てて言った。
「あんたの名前よ。ないと不便でしょ? 呼びにくいし。だから私が決めてあげる」
リオのその言葉を聞いて、男が眉を寄せたまま小さく唸った。数秒して、リオにその赤い瞳を向ける。
「長い。却下」
ピクリ、とリオの口元が引きつる。
「じゃあソルフ」
リオの言葉に、今度は男が嘆息した。
「……どうして『赤』にこだわる?」
「だってあんたの目、血みたいに赤いんだもの」
まったく悪びれた様子もなく、リオは男の目を血のようだと言い放つ。男もそう言われることには慣れているのか、あまり表情を動かさなかった。代わりに、再び嘆息する。
「他には何かないの?」
「ラガト」
「遠慮しておきます」
迷わずその言葉を出してきたリオに、男は即答した。ちなみに『ラガト』というのは、『血』を表す言葉である。
男の返答に、リオはかなり不機嫌そうな顔をした。立てていた人差し指でコツコツとテーブルをつつきながら言う。
「……じゃあ、何がいいのよ?」
「さっきのでいいよ。さっきので」
男の方も、心なしか不機嫌である。
「さっきのって何よ?」
「二番目だ。二番目」
リオの黒い目が、一瞬輝いた。
「ソルフね。いいのねソルフで。よしじゃあソルフで決定っ!」
叫んで、テーブルに置いていたビールを一気に飲み干す。そしてリオは、思い出したようにポツリとつぶやいた。
「……そういえば、もうビールなかったっけ」
「ああ、すまん。オレが飲んだ」
「あんたか」
ギロリとリオが男――ソルフを睨む。
リオはソルフから視線を逸らすと、よいしょとつぶやきながらイスから立ち上がった。ビールの缶をゴミ箱に放り込むと、イスに掛けていたカバンを手に取る。
「……どっか行くの?」
「ちょっと買出しにね」
「ああ、じゃあオレも……」
そう言って、ソルフがイスから立ち上がる。そこにリオが待ったをかけた。
「あんたもしかして、そのまま行くつもり?」
リオが言っているのは、もちろんソルフの格好のことである。
パンツ一丁。以上。
さすがにこのまま外に出られては、ソルフ自身はともかくすぐ近くにいるリオの立場が危うい。
「……やっぱりこのままはまずいか」
本気でそうは思っていないような口調でソルフは言う。この男、リオに突っ込まれなければこのまま外に出てしまいそうな勢いである。
ビッと指を差して、リオはソルフに向かって叫んだ。
「まずいわよ、まずいにきまってるでしょう!? とにかく何か着なさい! 着るものがないならしょうがないから私の貸してあげるから!」
「ああ、それはどうも」
言ってから、ソルフは何か思い当たることでもあったのか小さくあ、とつぶやいてから付け足した。
「スカートは駄目な」
「当たり前よ! それとその髪結びなさいっ!」
住宅街からそう離れてはいない商店街の、その一角にあるスーパー。その正面玄関の大きなガラスの自動ドアが両側に開き、二人の人間が姿を現した。片方は比較的標準的な体躯の黒髪の女性で、もう片方は遠くからでも判るほど背の高い黒髪の男性である。
二人はもちろん、リオとソルフだ。
リオはもうクリーム色のスーツではなく、白いT‐シャツとジーンズというラフな格好に着替えている。ちなみに手には何も――自分のバッグ以外の物は何も持っていない。一方ソルフは黒いT‐シャツと革のパンツ――これは自前の物で、かろうじて無事だった――という格好だ。そして手には多量の――しかもこれでもかと言うくらい中身の詰め込まれた白いスーパーの袋が提げられていた。
「あの」
ソルフが控え目に、前を向いたままリオに向かいつぶやいた。
「これ、物凄く重いんですけれども」
「へえ、そう」
リオはそれに対し特に何の感情も込めずに、言葉を返す。その言葉にはさすがにソルフも眉をしかめ、リオのほうを向いて言う。
「……それだけですか? もっとこう、何か……」
「ない」
「ああ、そう」
再び視線を前方へと戻し、ため息と言うものを言葉に乗せて呟く。
「…………」
耳に入るのは街の生み出す雑音だけとなり、そのまま沈黙が数秒間続く。別に重いと言うわけでもなく、飽くこともなく、ただ普通にそこに在るような沈黙。
「ねえ」
その沈黙を破ったのは、リオだった。ソルフとその手に――多量のスーパーの袋とともに握られているものを交互に見ながら言う。
「それ、何?」
「さあ?」
「…………」
ソルフはリオの問いに即答し、リオはそれに対して言葉を失った。
リオが疑問に思ったそれは、ソルフの身長―― 一九〇センチはあると思われる――とそう大差ないほどの長さの巨大な赤い棒だった。ぱっと見、どこの家にでもある物干し竿のようである。
リオは呆れたようにため息まじりでその棒――その先端を見ると、何かに気がついたかのように急にその黒い目を鋭くして言った。
「それ、ただの物干し竿……では、ないわよねえ?」
「…………」
先ほどまでと違い冷たく鋭いリオの口調に、今度はソルフが黙り込む。
リオが言っているのは、その棒の片方の先端に巻かれた薄汚れた布のことだった。ただの物干し竿ならば、そんなことはすまい。さらにその布の形が物語っているものは、明らかにただの物干し竿の延長ではなかった。その巻かれた布は広く薄くのび、そして次第にその幅を狭めていく。
まるでそこにあるものを隠すかのように、その布は厚く丁寧に巻かれていた。
そう――まるでその棒の先端に、刃物でも取り付けられているかのように。
いつまでも何も言わないソルフに、リオは一つため息をついて、視線を前方へと戻して言った。
「……それ、いつも持ってるわよね。何で? 邪魔じゃない」
その何気ないリオの言葉に、ソルフはようやく口を開いた。
「……手に引っ付いて離れないんだ」
リオが目だけで、ソルフを睨んだ。
「嘘」
「そう、嘘」
ソルフは悪びれる様子もなく、あっさりと認める。そして、言葉を続けた。静かに、呟くように。
「持ってないと、不安になる……」
雑踏の中でも不思議と確かに聞き取れたその言葉に、リオはそれ以上何も言わなかった。
あの赤い棒は、初めて会ったときからソルフがその手に持っていたものである。そのときもソルフは、その棒を握ったまま放そうとしなかった。
ソルフの目が、じっと前方を見つめる。
(……どこを見てるの?)
リオは胸中で呟いた。
ソルフの赤い目が悲しみに陰り、どこかここではない、遠くの空を見ているようにリオには思えた。
そのままその道をまっすぐ歩いていこうとするソルフの腕を、リオは思いっ切り掴んでその動きを止めた。急な力の変化に、等速直線運動を続けていたソルフの手に提げられた多量のスーパーの袋は慣性の法則に従い大きく前方に揺れ、そしてソルフの手に握られている赤い棒の端とぶつかる。
ぐち。
「卵、割れたかも」
「大丈夫。これくらいじゃ割れないわよ」
「でも今ぐちって」
「割れてない割れてない」
ソルフのささやかな心配――多少冷めたような口調からしてどうやら本気で心配しているようではないのだが――を、リオはあっさりと払いのける。主婦たるもの、これくらいで動揺していては身がもたない。……リオは主婦ではないのだが。
ソルフもあまり卵のことにこだわる気は無いようで、すぐに視線をスーパーの袋から目の前の建物に移した。
「……寄るの?」
「そ。寄るの」
リオは当たり前だとでも言いたげな様子で言う。
ソルフはしばし、その建物を見つめた。
白い塗り壁に茶色の薄板を貼り付けて柱や窓枠をつくっている。屋根は板と同色の茶。どちらかというと小さいその建物の中にはいくつものテーブルとイスが並べられており、そこには老若男女の人々が座り、食べたり飲んだり話したりしている。奥に見えるカウンターと思えるところには、一人の男性がいた。どこかで焼いたのかそれとも元からなのか――どちらにせよ肌の色は黒く、そのが体はかなりしっかりしている。
ソルフは視線をリオに移し、問うように言った。
「……あの。喫茶店にしか見えないのですが」
「だって喫茶店だもの」
「…………」
リオの言葉に、ソルフは言葉を失った。しばしリオを見つめたその体制のまま固まり、きっかり三秒後、口を開く。
「喫茶店に何故寄る必要がある?」
その言葉を待っていたのか、リオの口元がふっとほころんだ。
「知りたい?」
「いや、別に」
ソルフがそう答えると、リオは意地悪そうな笑みを浮かべてドアノブに手をかけた。
「じゃあ、私が出てくるまでそこでそうやって立ってなさいね」
リオのその言葉に、ソルフはふと考えた。こんな真昼間に喫茶店の前で突っ立っている自分はどうなのだろう? しかもこんな荷物を提げて。
(待ちぼうけを喰らわされてる彼氏以下、か……?)
そういう結論とそうなっている自分とが同時に脳裏に浮かび上がり、ソルフは顔をしかめた。ちょうどドアを開けて店の中に入ろうとしていたリオの背中に言う。
「待て、オレも行く」
リオはそれに、小さく微笑んで答えた。それを了承の意と見て、ソルフはリオに続き店の中へと入る。
ごっ。
「…………」
ソルフは無言で一歩引き、そして今度は頭を少し低くした格好でドアをくぐる。
「……ふう」
今度は無事に店の中に入り、ソルフは安堵のため息を漏らした。……まあつまり、ドアがソルフの身長よりも小さくそのことに気づかなかったためにソルフは頭をぶつけてしまったのである。思いっ切り。
「ふっ」
それを見て、リオが嘲るような笑みを口元に浮かべた。嫌な笑みである。
「リオ」
自分を呼ぶ声を聞いて、リオは振り返った。その先にはカウンターがあり、一人の男――この店のマスターがいる。
マスターはガラスのコップを磨きながら、しかしその手を止めることなく言った。
「奥で待ってろ」
リオはその言葉に頷き、店の奥――カウンターの隣にある店の奥へと続いているのであろうドアの奥――へと足を進めた。ソルフもそれに続くように、店の奥へと姿を消す。
そこは小さなランプが三つほど等間隔で壁に掛けられている、薄暗い部屋だった。四方を囲むのはコンクリートの壁で、冷たく陰湿なイメージを与える。さらに言えばその壁に張り付くように棚が並んでいて、そこには大小様々な物が置かれていた。それらの共通点を挙げるならば、全て何やら冷たい光を放っていることだ。例えば、鋼特有の。そしてそのお世辞にも広いとは言えない喫茶店の地下室には所狭しとテーブルが並んでいて、その上には瓶やら小皿やらが並んでいた。もちろんそれらにはいろいろなものが入っている。例えば、鉛色の小さな弾。
そしてその部屋の一角には、リオとソルフがこの部屋に入るときに使った喫茶店へと続く階段がある。木製の、かなり角度が急な階段である。
「ようリオ、久しぶりだな」
声と同時、部屋の奥の暗がりから人影が現れた。かなりが体のいい男性のようである。ランプでぼんやりと照らされたその姿は、喫茶店のマスターのものであった。
……否、
「双子か?」
ソルフがぽつりと、こぼすように呟く。その言葉に、リオがソルフのほうへと振り向いた。その顔には、驚きが色濃く浮かんでいる。
言葉をなくしているリオの代わりに、男は顎に手をやりながら笑みを含んだ調子で言った。
「どうしてそう思う?」
その問いに、ソルフは半ば面倒くさそうな口調で答える。
「この部屋に下りるための階段はオレたちの後ろにある。だがあんたはここを通らずに奥から出てきた。……ずっと奥に居たんだろう?」
「まあ、そういう考え方もあるな。……だが、奥にも階段があったらどうする?」
男は、多少諦めにも似たため息とともに言った。期待外れか――そんな感じで。
ソルフはそんな男の様子を気に留めることもなく、先ほどと変わらない調子――つまりは面倒くさそうな――で言う。
「じゃあ、これならどうだ? さっき上にいた奴より、あんたのほうが少し声が低い。それに髪の色も、微妙に違う。オレたちがここに降りてきてあんたはすぐに出てきた。さすがにこんな短時間に髪を染めたりすることは無理だろう。声ぐらいはどうにでもなるかもしれないが」
「髪の色? ……それは、ランプの光で違って見えるのではないのかね?」
「そうかもな。でも」
ソルフはそう言って、男の首元をじっと見つめた。
「上にいた奴は、そんなところにほくろはなかったぞ?」
「……………………ふっ」
しばらく間をおいて、男は噴き出すようにして笑いだした。顎に当てていた手で顔を覆い隠して、体を震わせて笑っている。
「ふはは、ふははは……。兄ちゃん、いい目と耳を持ってるじゃないか。……いかにも。オレたちは双子だ。兄ちゃんの言ったことは、何一つとして間違っちゃいないよ。階段のことも、髪のことも声のことも……もちろん、このほくろのことも」
言って顔を上げ、そのほくろをはっきりとソルフに見せる。
「ちなみにリオは、オレたちが双子だって気付くのに三週間かかった。……それでも、早いほうだったんだけどなあ」
その言葉にソルフはリオを見ると、目が合ったとたんにリオは顔を赤らめて怒ったようにそっぽを向いた。
「三週間も、凄いと思うけど」
ソルフが呟く。だがその言葉はリオには効果がなかったようで、
「あんたは一瞬で見抜いた」
拗ねたように口を尖らせて、リオが言う。そんなリオの様子を見ながら、男――この喫茶店のマスターの双子の兄弟――は苦笑しながら言った。
「まあリオ、そう拗ねるな。……お前の相棒の修理は、終わってるぞ」
そう言って男は、すぐ後ろの棚から黒い何かを取り出した。
「相棒?」
「まあ正確には、『相棒たち』だな」
ソルフの疑問に、男はただそうとしか答えない。
リオは男のほうに歩み寄ると、それを受け取った。各部を自分の手で確認する。
ソルフはそのリオの手の中にあるものを見て、眉をひそめた。
「……銃?」
ソルフが不思議がるのも無理はない。それは確かに銃だった。それも二丁。
なんにせよ、普通の――この世界に住んでいる大勢の人と同じような生活をしていれば、一生触れることも、まして見ることもないかもしれないような代物である。
正直、こんなOLのお嬢さんが持つような物ではない。
「あんた一体何の仕事してるの?」
至極まっとうな質問であったと、ソルフ自身も思う。だがリオは、微かに微笑んで小さくこう言うだけだった。
「普通じゃないOL」
「答えになってない気がするんですけど」
こめかみ辺りに軽い痛みを覚えながら、ソルフが言う。しかしリオはそれは無視して、ひとりテーブルに並べてある物を物色しだした。
「…………」
ひとり取り残されたソルフは特にすることもなく、ただぼんやりとリオの背中やらその奥にある棚の上の物を眺める。そこにあるのは拳銃、短刀にはじまり、一番奥の棚には昔軍で使われていたのではないかと思われるような軍用ライフルや長騎剣の数々である。
つまるところここは――公式、非公式はどうかは知らないが――武器屋ということになる。
その武器屋の店主である男は、ふとソルフの持つ巨大な棒に目を留めた。
「兄ちゃん、それは何だい?」
その言葉に、ソルフは視線を向かいにあるランプに固定して少々思考をめぐらせながら答えた。
「そこのスーパーで買った食料だ。中身は……なんだっけか……卵にビール、玉葱と……」
「ああ、いや、そうじゃない」
ソルフが自分の持っている袋の中身を言い出したところで、男は慌てて訂正した。ソルフの持つ袋――ではなく、赤い棒に視線を這わせながら、言う。
「その長い棒だよ。まさかただの物干し竿を持ち歩いているわけでもないだろう?」
言葉が終わると同時、男がその視線を棒の先端近くで止めた。不格好に巻かれた薄汚れた布と、棒との境目。ほんの少しだけ姿を見せている金属のような輝きの中に、何かが刻まれたように影を落としている。
男の眼光が、鋭くなった。
(これは……)
「マスター、このナイフ二本貰えるかしら?」
「え? あ、ああ」
突然のリオの言葉に思考を中断され、男は棒から目を離した。ソルフをその場に残し、リオのほうに歩み寄っていく。
「これでいいのかい?」
男の言葉に、リオはナイフをくるくると手の中で弄びながら言った。
「ええ。この間の仕事でちょっとへましてね。一本なくして一本折られた」
「そりゃ災難だったな」
口ではそう言っているものの、男の目はどこか笑っている。リオはその目の輝きに、冷たい視線を浴びせながら言った。
「……本当にそう思ってる?」
「ははは。まあ、こっちは商売だからな。……ほれ、しめて七五〇〇ジルだ」
「わかったわ。じゃあいつものように、会社のほうにつけといて」
「あいよ」
会話を終えると、リオは二丁の銃とともに二本のナイフを厚手の紙で包むと持っていた黒いショルダーバックの中にしまいこんだ。そしてソルフの方――もとい、上へと続く階段の方へと歩いていく。
「それじゃ、また何かあったらよろしくね。……ほら、行くわよ」
「ああ……」
リオに肘で横腹をつつかれ、リオに続きソルフも階段を上る。男はしばしその二人を見つめていたが、二人の姿が上階に消えるとすぐにその眼光を鋭くし、思考をめぐらせ始めた。凄まじい速さでその思考は脳内を駆け巡り、必要としていた記憶を探し出す。
元フォルド公国軍歩兵部隊第四小隊隊長。それがこの男の真の姿である。
大公直属の禁軍にしか歩兵を――しかもほんの少数しか――必要としていない今の軍になるまでに、多くの歩兵たちが職を失った。その中には傭兵ギルドを創りそのまま傭兵稼業を営もうとする者たちも少なくはなかったが、この男のように傭兵稼業を引退し、町の中に潜んでいる者も多い。
「あの紋章は、確かに〈スルーズ〉の……」
記憶の中のそのギルドの紋章と、先の男――ソルフの持っていた赤い棒の金属部分に刻まれていたものとを頭の中で照らし合わせる。
盾の前で交わった、二本の剣。
だが……、
「あそこであれを持っていたのは、確かあいつだけ……」
その事実に突き当たり、眉をしかめる。
あの形状からして、ソルフの持っていたのは間違いなく槍である。
男は口元に手を当てたままもごもごと、小さく呟くように言った。
「だとしたら、さっきの兄ちゃんは……」
窓の外では、太陽が地平線に沈みかけている。
家に帰った時、時刻はすでに五時を過ぎていた。
「ねえ」
あからさまに不満を含んだようなリオの声が、ソルフの背中に突き刺さる。
「少しくらい手伝いなさいよ」
「やだ」
振り返ることもなく即答したソルフに、リオは口元をひくりと引きつらせた。隣近所に迷惑が掛かるからかあまり足音はたてずに――だがずんずんと巨大な怪獣でも近づいて来るような足取りで、リオはキッチンからベランダの方に足を運ぶ。
そしてベランダに腰を下ろしてひとりのんびりとタバコをふかしているソルフの背後に立つと、足は曲げずに顔だけ近づけるような形で、ソルフの耳元で呟いた。それもかなり、刺々しい口調で。
「居候のくせにっ!」
「……そんなこと言われても、オレは料理なんてできな」
瞬間ソルフはそこで言葉を止め、自分の身を伏せると同時、右手で思いっ切りリオの頭を床に押し付けた。
「うわひゃっ!?」
妙な悲鳴を上げて、リオがべたんと床に倒れた。どうやら足が滑ったらしい。
「…………」
身を伏せたままソルフは目だけで周囲を見回し、数秒してからリオの頭から手を離した。ゆっくりと体を起こす。
ぐっ。
「……何やってんの?」
「それはこっちの台詞よ!」
自分の黒い革のパンツの裾を握り締めて起き上がろうとするリオを乾いた眼差しで見つめ、ソルフが呟く。すると――床で打ったのか――鼻の頭を真っ赤にしたリオは、そのソルフの赤い瞳を多少潤んでいるようにも見える黒い瞳で睨みつけながら怒鳴った。
そのリオの言葉に何か不満でもあるのか、ソルフが機嫌の悪さ丸出しで呟くように言う。
「……命の恩人に、何てこと言うのかねえ。あんたは」
「……は?」
ソルフの言うことの意味がわからずに、リオが膝をさすりながら声を上げる。どうやら膝も思いっ切り床にぶつけたらしい。
そんなリオを見てため息を一つ漏らすと、ソルフは視線をリオから室内に向けた。それはちょうど、自分とリオの一直線上にある。
「あれ」
ソルフは顎で、リオにそれを示した。
「あれ……?」
一体何のことだと言うような口調で呟きながら、リオはソルフの示す方に頭を回す。
「…………」
そして、言葉を無くした。
二人そろって無言。その状態が三十秒ほど続く。
リオはゆっくりとそれに向かって歩くと、間近でじっとそれを見つめて、そしてそのまま固まった。
「……大丈夫か?」
さすがのソルフも固まったまま動かないリオを心配してか、声をかける。
リオの首が、ギギギと音をたてそうな様子でゆっくりと動き、そして止まった。その瞳はソルフを見つめ、そして口はぱくぱくと金魚のように動いている。
数秒してその口から、ようやく言葉が発せられた。
「こ、ここここ、これ……!」
リオの左手はしっかりと人差し指を立てた形で、そこにあるものを指している。
「か、壁に刺さって……!」
「ああ。刺さってるな」
「何でそんなに冷静なのよっ!!」
かなり動揺していたリオの言葉に対し平然と言葉を返したソルフに、リオが元の調子で怒鳴る。
今ので完全に緊張が取れたのか、リオがそれ――矢を壁から引き抜いた。しばしそれを見つめ……、
「危ないじゃない! 当たってたら死んでるわよ!」
何故か手に持った矢に向かって、叫ぶ。
「大丈夫だ。オレのおかげであんたは死んでない」
「ああ、どうも。……じゃなくて!」
思わずその場のノリでソルフに向かい頭を下げそうになったリオは、声を出して体に纏わり付いていた妙な雰囲気を振り払った。矢がメキメキいうほど握り締め、そして言う。
「一体何なのよ、これは!?」
「外から飛んできましたが」
「そんなことは言われなくてもわかるわよ!」
言葉を返すついでにソルフをきっと睨みつけ、リオはその目にさらに力を込めながら言った。
「私が言いたいのは、こんな矢が一体どうしていきなりわたしたちを狙うように飛んできて、壁に刺さってたのかっていうことよ!」
「それ」
リオの剣幕に圧される様子はまったくなく、普段通りの調子でソルフはリオの持つ矢を指差した。
「何よ?」
ソルフの態度が気に入らないのか、リオがほんの少し膨れながら言う。
ソルフは付け足すように、ぽつりと言った。
「矢文」
「……?」
リオが膨れたまま、しかしその瞳に疑問の色を混ぜて自分の手の中の矢へと視線を移す。すでにぽっきりと折れてしまっていたその矢には、確かに矢文と思しき紙切れが結び付けられていた。
その紙を矢からほどき、そして広げる。
「……………………はい?」
数秒間沈黙した後、リオはようやくその言葉だけを発した。
「それ、あんたに?」
ソルフの何気ない一言に、何故かリオが過剰反応する。
「ち、ちちちち、ちがうわよ! 私はこんなのに覚えなんかな、な……ないはずよ!!」
最後があやふやになっているのは、多少なりとも心当たりがあるからか……。まあ彼女の仕事のことを考えれば、この反応もわからないでもないことであるのだが。
リオの見事な動揺ぶりが気になったのか、ソルフはリオに近づきその手に握られている紙をリオの後ろから覗き込むようにして見た。
――今夜九時。死に場所は自分で決めろ。
紙にはただ、そう書かれている。
ソルフは数秒間その文字を見つめると、その赤い目を細めて言った。
「……わり。それオレだわ」
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