序章
月の光すら通さない、深い森の中。
普段なら夜行性の動物が動き出す時間にもかかわらず、彼らの気配はない。巻き添えはごめんだ――そう思っているのだろう。
夜の森は、まるで生きているものがどこにもいないかのように静かだった。
……そして、静寂を乱すものが、一つ。
「はあ……はあ……」
闇の中から、赤い二つの目が浮き上がる。
それは、男だった。
口元を布で覆って隠しているために、はっきりとした年齢はわからない。おそらく二十代……その程度の推測だ。
髪の色は、闇と同じ黒。肩ほどにまで伸びたそれを、今は一本の紐で縛っている。
着ているものは、どれもボロボロだった。いたるところに裂け目ができ、そこから赤いものが流れ落ちている。
――血。
そして男の手に握られた巨大な槍にもまた、血が染み付いていた。
「……!」
何かを感じ取ったのか、男が振り向く。それと同時、男の持った槍もまた、彼の思い描いたとおりの軌跡を描いていた。
ズシャ。
鈍い音がして、手にその振動が伝わってくる。
男が槍を振り戻すと、その矛先のあった場所――男の背後にあった木の上から、何かが落ちてきた。
男と同じような外套を身に纏った、男だった。こちらも口元を布で覆っているので、年齢はわからない。
ただその男は、笑っていた。地面に倒れたまま――おそらくそのまま死を迎えるであろう格好で。
「へ、へへ……。逃がさねえぞ、アカツキ……。お前はやっちゃいけねえことをしたんだ。一番、やっちゃいけねえことを……」
「…………」
アカツキと呼ばれたその槍の男は、ただ無言で槍を振り上げた。そしてそれを、何の感情もこもっていない目で見つめながら、振り下ろす。
刹那。
「アカツキイィィィッ!!」
背後から、叫び声。それとともに、殺気。
アカツキはとっさに槍を引き抜こうとしたが、できなかった。腹に槍の刺さったまま、もう一人の男はそれを放すまいと握っている。
「くそっ」
小さく毒づき、槍から手を放す。もうあの男は使い物にならない。ならば相手にすべきはこちらだ。
ベルトに吊るしてある短刀を手に取り、振り向く。
銀に輝く刃――それだけが見えた。
「……くそ、あのヤロ……」
小さく毒づきながら、ふらふらと歩く。
アカツキである。
先の戦いで負傷したのか、傷はさらに増えていた。右足などは、もう引きずって歩いているも同様だ。
恐る恐る、空いている左手で後頭部を触ってみる。妙な感触と生温かいものが伝わってきて、アカツキは一瞬顔をしかめた。
「……ちっ」
その手にべっとりと付いたものを見て、舌打ちする。こういうときはいつもその辺の物にあたったりしたものだが、今はそれほどの気力も残っていなかった。
少しは足を止めて休みたい気もしたが、そういうわけにもいかない。自分は追われているのだ。逃げなければならない。しかし、
(オレは、どこに向かっている……?)
問うが、当たり前のようにその答えは返ってこない。
仕事以外で外に出たことのなかったアカツキに、仲間以外の知り合いはいない。そしてその仲間も今は、殺され、そして敵となってしまった。
行くところなど、どこにもない。
(くそっ)
アカツキは胸中でぼやいた。もう、声を出すことさえ億劫になってきている。
(目が、霞んできやがった……)
同時、その他の五感もだんだんと薄れていく。
――流れていく血から、自分がこぼれ落ちていく……。
ザアア……。
(……滝?)
かろうじて聴覚がその音を捉え、消えかけていた思考がわずかに回復する。
刹那。
(オレは……)
一瞬、ふわりと体が浮かぶ。
(誰、だっけ……?)
次の瞬間には体を包んでいた浮遊感は突然失われ、その体は滝に飲まれた。そしてそのまま、水の赴くままに、流されていく……。
一章 →
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